呪いとクリスチャン
ジェイコブ・プラッシュ
初代教会は現代の私たちが失ってしまったあるものを持っていました。“私たち”と言うのは私のような人たちという意味です。御霊の賜物を信じる人たちのことです。
“教祖信仰”
現代の教会の中には無宗教の世界から、また偽りの宗教体制から来たものがあります。それは“教祖信仰”です。ヒンドゥー教祭司が言うことは何でも、信奉者や敬虔な信者は信じます。教祖様が言ったことは何でも信じてしまうということです。
ローマ・カトリック教徒は教皇の教えを信じます。正統派ユダヤ教徒はラビたちが言うことを何でも信じます。レッベ(現代のラビ)やツァディク(ハシド派指導者)が言うことなら、それが彼らにとっては神のことばなのです。イスラム教徒はイマーム(イスラム教指導者)に尋ねに行きます。イマームがアッラーのもとに直接行くので、信徒たちはイマームを通してアッラーのもとへ行くのです。
このような考え方はこの 30 年のうちに、特にこの 10 年間にまるで雪崩のようにキリストの体に押し寄せてきました。
ただ召された者や神から賜物を受けた者の言葉を、何も調べることなく、神のことばであると受け取る考え方がクリスチャンの中で大きくなってきました。その人が言ったから正しいのだという姿勢です。
タルソのラビ・サウロ
パウロは奇跡やしるし、不思議なことを行いました。彼は癒しを行い、パウロによって非 常に多くの人が回心しました。パウロは多くの教会を立て、新約聖書の半分を書きました。パウロはラビの中のラビであり、ヒレルの学校で学んだパリサイ人でした。パウロはラ ビ・ガマリエルの弟子だったのです。
想像してみてください、今の時代に有名なラビがイエスに人生を明け渡し、奇跡を行い始めたらどうなるでしょうか。人々はその人を教祖にして、その人が言うことは何でも正しいとするでしょう。
しかし、パウロは自分自身を教祖のようにすることはありませんでした。パウロはどのように言っていたでしょうか。
『しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福
音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです』(ガラテヤ 1 章 8 節)
パウロという人を偉大にしていたのは、いつも彼が本当の権威がイエスまた神のことばから来ていることを認識していたからです。パウロは与えられた権威に対して忠実な管理人でした。
今日、神に召され、しるしや癒しなどの賜物に恵まれ、神に用いられ、その人を通して多くの人が救われるような人がいますが、ある考え方が教会に忍び込んできて、そのような人たちが言うことは何でも真理となり、口をはさむ余地を無くしてしまうことが起こっています。私たちはそのような人たちを教祖にしてしまいます。ユダヤ教徒、カトリック教徒、ヒンドゥー教徒、モルモン教徒だけではなく、クリスチャンでも同じことをしています。それは特に、“復興主義運動”や“ハウスチャーチ運動”などで顕著です。
“党派心”
ギリシア語での“異端(英語での heresy)”という言葉は単に間違った教理のことをさすだけではありません。その本当の意味は教会を分離させようとしたがる者や、分派を起こす者のことです。
ガラテヤ人への手紙はそのような“党派心”の罪についてはっきりと語っています。党派心とは神の霊によらず同盟を結ぶもので、真理を自分たちだけで独占しようとするものです。そのようなものを作る人たちは自分のグループ以外の人を二流の信者やクリスチャンであると見なします。
真理の基礎となる唯一のものは聖書です。最も素晴らしい教会に行ってみても、そこにはいくらかの間違ったことや間違った人たちがいて、悪い教会でもそこにはいくらかの正しいことや正しい人たちがいるでしょう。黙示録にある7つの教会もそのようでした。
党派心または派閥を作る傾向は“肉の行い”です(ガラテヤ 5 章 19 節-21 節)。教派が存在することと、教派主義とはまた別のことであり、教派主義とは党派心の罪の別の言い方です。奉仕や伝道、貧しい人を支援するために教会がひとつになって働くための現実的な仕組みとして組織を作ることに、私は反対しているのではありません。しかし、人が派閥を作り、キリストの体から自分たちを切り離すならそれはまた違ったことです。
エキュメニズム
分裂にはふたつの種類があります。聖書は、本当の信者が明らかにされるために分裂はさ
けられないと言っています。当然、エキュメニズム(キリスト教統一運動)は神の霊によ
らない一致であり、偽りの一致です。
聖霊は真実の霊です。霊の一致を誤りの上に立てることはできません。救いが秘跡を通してやってくると教え、新生することの代わりに化体説を信じ、死者に祈ることを教える教会と一致することは目に余る背徳的な行為です。それは霊の一致ではありません。聖書を信じるクリスチャンはこの世の偽りの宗教制度とひとつになることはできません。
その一方で、クリスチャンが過度に分裂し合うことは完全に間違っています。私はここである種の単一的な組織が必要だと言っているのではなく、キリストの体には霊の一致があるべきであり、それは誰もが持つ神さまが与えてくださった恵みの経験と、イエスにある救い、また神のみことばの権威への献身に基づくべきだということです。
人は教理的な真理から拡大した、ひとつの教えにこだわり、それをある種の巨大な核心とし、その教えに基づいて教会を形成する傾向があります。しかしある真理をすべて他の真理の基礎としてしまうとき、それは偽りとなります。
これを説明しましょう。すべての真理の中で唯一の聖書的な基礎となるのはイエスです。 キリストは葬られ、キリストは死者からよみがえり、キリストはまた来られます。十字架、空になっていた墓、オリーブ山(ゼカリヤ 14 章 4 節)――この基礎となる真理の上に、す べて他の真理は築き上げられるべきです。すべて他の真理はイエスの真理を中心として基 礎を置かれなくてはならないのです。
聖霊が歪められる
聖霊についての真理はカトリックとプロテスタント両者によって抑圧されてから数世紀たち、カリスマ派やペンテコステ派は聖霊についての真理を取り、すべて他の真理の基礎としてしまいました。彼らは結局、非常に歪められ、非聖書的な聖霊のイメージを抱くようになってしまいました。
聖霊の働きは、アブラハムがイサクの妻をめとるためにしもべを遣わしたことによって象徴されています。子であるイサクはイエスに関連しています。アブラハムは御父に関連していて、しもべは聖霊です。御父は自分の民の中から、息子のために花嫁を備えるため、しもべを遣わしました。聖霊はいつでも人の目をイエスに向けさせるしもべです。
聖霊がイエスにまさって強調されるとき、人々は「聖霊様、来てください」と歌います。聖書の中で、聖霊に向かって祈りがなされたことは一度もありません。聖霊は唯一、三位一体の中で神の神格として礼拝されますが、直接祈りを向けられてはいません。
したがって、真理が偽りとなっているのです。イエスこそがすべての真理が築き上げられ るべき、中心的な真理であるのに、他の真理がイエスの代わりに置かれてしまっています。聖霊自体は真理なのですが、その教えは実質的に偽りのものとなっています。そしてこの 偽りの教えから、カリスマ派のあらゆる種類の行き過ぎた行為や、正気を失った教えが出
てきています。
悪魔を中心としたキリスト教
もうひとつの分裂は、呪いに関しての事柄です。聖書の中には呪いに関する事柄がありますが、人々はそれに取りつかれています。
私は以前、いろいろな奉仕の強調点がすべて“悪霊をクリスチャンから追い出す”ことや呪いを解くことに置かれている教会にいました。そこの人たちはイエスについて話すよりも、多くの時間を悪魔について話すことに費やしていました。
彼らが考えるにはすべての問題が呪いや悪霊と関連していました。この問題は、人々がイエスとの自分との関係について、個人的な責任を取りたくないことに大きく起因しています。そしてまたこれも教祖信仰です。
私たちは専門化された社会に暮らしています。法律の問題を抱えているなら、弁護士に電話をかけます。医学的な問題があるなら、医者に電話をかけます。金銭的な問題なら、銀行員に電話をかけます。それでは霊的な問題があったならどうするでしょうか、牧師に電話をするのです。
その人が専門家で、彼が権威者なのです。「お医者さん、どの薬を飲んだら良いですか?弁護士さん、どの法的行為を取るべきですか?」それと同じように、「牧師さん、どうしたらいいのでしょう」と人々は尋ねます。
神のことばに関する無知
私のように御霊の賜物を信じる人たちの中には、学識がある人が欠けています。私たちにはすぐれた才能を持つ教師が不足しているのです。その中のほとんどの牧師が教理に関して何も知りません。ごくわずかな人しか専門的な神学を知らず、ギリシア語やヘブライ語に自信を持っていません。
聖書は『わたしの民は知識がないので滅ぼされる』(ホセア 4 章 6 節)と言い、今日も人々は知識が無いことによって滅んでいます。
この理由のために私はデレク・プリンス(Derek Prince 1915-2003 イギリス人聖書学者)
に多大な尊敬の念を抱いています。デレク・プリンスはカリスマ派の牧師の中でも数少ない、聖書を本当に勉強した人で、労を惜しまず原語を調べ、語彙から解釈を導き出すことにおいてとても優秀でした。
彼はそのようなものを用いて、人々の実際的な必要に応えていました。私は彼と一度話しただけですが、私はいつでもデレク・プリンスと彼の奉仕を尊敬してきました。
私が思うに、デレク・プリンスの教える 90 パーセントの教えがとても良いものから、素晴らしいものです。良いものがあるのに、すべてを拒否してしまうのはとんでもない悲劇で
す。
ふたつの危険があります。ひとつは間違っているものを見つけるか、神から何かを間違っていると示され、そのことのために誰かの奉仕全体を拒否してしまうことです。福音自体に影響を及ぼす基礎的なこと、たとえばコープランドやケニヨン、ヘーゲンらが「イエスは霊的に死んだだけで、十字架の上ではすべてが終わっていない」というようなことがあれば別の話しです。しかし、基礎的なことに誤りが無い限り、誰かが言ったひとつやふたつの間違い、わずかな比率のことをもとに、誰かを退けることは極力避けるべきです。誰も完全ではありません。私も確実に完全ではありません。
偽りの教師を退ける
誰かの奉仕を完全に退けるには4つの基準があります。
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性的不品行:告白されず、継続的で、悔い改めることのない不品行――それはその人の奉仕を知り退けるひとつの要因です。
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福音:誰かが福音の代わりに他の方法で救いの道を設けるなら――たとえば救いが行い、律法、秘跡によるなど――そのような人たちは退けられるべきです。聖書はすべ
ての信者が祭司であると教えています。ローマ・カトリックや東方正教会、モルモン教などはすべて特別な祭司職を設け、新約聖書が教える新しい契約を否定しています。
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キリストの人格:イエスについて何を信じているでしょうか。イエスは道であり、真
理であり、いのちでしょうか。イエスについて何か正統的でないことを教えている場合、そのような教えと教えている人たちを退けてください。
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みことばの権威:みことばの権威を何か他の教理的な権威をもったものと置き換え、他の“啓示”に基づいているなら、それを退けてください。
性的不品行、みことばの権威とイエスの人格の拒否、また別の福音を信じているならすべてを退けてよいのです。
多くの者が教師になってはいけない
私は問題が自分たちにあると考えています。私たちはベレヤ人(使徒 17 章)の精神を失ってしまいました。私たちは多くの場合、ただその人が正しいように思えるため、その言ったことを受け入れてしまいます。
『多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです』(ヤコブ 3 章 1 節)
私は聖書を教えたくはありません。私はむしろ伝道者になって、この種のものを他の人に
任しておきたいのです。私がこのことをしている唯一の理由は、主に世界中の多くの人を通して、これが私の集中すべきことだと聖霊から示されたからです。私のしたいことを自分で決められるなら、私は外に行って救われていない人に伝道をしているでしょう。
神はみなさんより、私に大きな責任を問われることを知っています。
『からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい』(ルカ 11 章 34 節-35 節)
これは人体の構造に関してのミドラッシュで、人間の目は教師を表しています。
私の言うことをただそのまま受け取らないでください。私は自分の教えることに関して神さまに責任を負っているのです。
学問における問題
祝福と呪い、またはクリスチャンが呪いを受けるということを教えている人たちの第一の問題は、彼らが原語であるヘブライ語とギリシア語を調べず、その言葉が使われている文脈をよく考えない点にあります。
このことをするなら、クリスチャンがどのような点で呪いを受ける可能性があり、どのような点で呪いを受ける可能性がないかが分かります。
ヘブライ語とギリシア語には呪いに関するさまざまな言葉があり、いつも置き換えがきくというわけではありませんが、そのほとんどは特定の形で使われています。
聖書の学問を複雑にしているもののひとつは、新約がヘブライ的な概念を用い、それをギリシア語に翻訳していることです。私たちは古代の七十人訳を確認し、ラビたちがヘブライ語の単語をギリシア語に翻訳するときにどう考えていたかを理解する必要があります。時々、あることに関してギリシア語ではさまざまな言葉があるのに、ヘブライ語ではひとつの言葉しかない場合があります。ヘブライ語で“愛”を表す言葉は“アハバー(ahabah)”といいますが、ギリシア語では最低でも7つ以上“愛”に関する言葉があり、聖書の中では3つ、ひょっとすると4つあります(3つが記され、4つ目は記されることなしにほのめかされています)。
原語におけるさまざまな言葉を調べ、それらが使われている文脈を理解しようとするなら
ば多くの問題が浮上してきます。とはいえ人が、しかもクリスチャンがある点において呪いを受ける可能性があり、また同時にどう呪いを受ける可能性がないかをそこから学び取ることができます。
ヘブライ語を理解する
ヘブライ的・ユダヤ的思考におけるある単語や概念の意味することを知るのに最良の方法は、その言葉の反対を知ることです。もし“寒い”という言葉を知っているなら、その反対である“暑い”という言葉も理解できます。“左”という言葉を知っているなら、“右”が何を表すかは分かります。もし“凸”という言葉を知っていれば、“凹”という言葉が何かが分かります。
ヘブライ語はそのようなものであり、対句として構成されています。何かの言葉の対句を理解すれば、その言葉が意味していることを理解するのに助けになります。
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ケロラー(Kelolah)
最初の単語は“ケロラー”「のろいの言葉――誰かの悪や不幸を祈ること」です。これは祝福されることと反対の状態です。良い事が起こるときそれは“ベラカー(berachah)”祝福です。
イスラエルの農業周期は雨によって決まります。雨が降るとき、それがとても激しく鉄砲水を引き起こすようなものであっても、イスラエル人は雨が祝福だと言います。雨が降らないことは呪いと見なされているのです。
『わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。』(イザヤ 44 章 3 節)
聖書はイザヤ 44 章とエレミヤ書において生ける水について語っています。イエスさまはヨ
ハネ 7 章においてそれを引き合いに出されました。この雨、生ける水は聖霊が降り注がれることを象徴しています。
雨は収穫をもたらします。雨が無ければ穀物は実りません。それは今日でも同じです。雨が無ければ穀物がなく、そうすると収穫が無いのです。今、神のみことばを聞くことの飢きんがあります。たましいの収穫は潜在的にありますが、刈り入れられてはいません。作物は実っていないのです。
“ケロラー”という語の概念が聖書で主に強調していることは人に関してではなく、国々が呪いを受けたり、祝福を受けることに関してです。“ケロラー”は個人的なものというよりかは、集団における祝福や呪いに関係しています。
『わたしはまた、刈り入れまでなお三か月あるのに、あなたがたには雨をとどめ、 一つの町には雨を降らせ、他の町には雨を降らせなかった。一つの畑には雨が降り、
雨の降らなかった他の畑はかわききった。』(アモス 4 章 7 節)
誠実な伝道者がアフリカで正直な福音を宣べ伝えたなら、文字通り何万人もの人々がたったひとつの伝道集会や、たったひとつの集会で自分の生活をイエスに明け渡すでしょう。
なぜでしょうか。それは聖霊がアフリカで降り注がれているからです。その同じ伝道者が同じ賜物、同じ油注ぎをもってイギリスやその他のヨーロッパの国々に行っても、実際比べても無きに等しいことしか起こらないでしょう。
賜物はそこにあります。油注ぎはそこにあります。ですが雨はとどめられています。その地は呪われて、“ケロラー”があるのです。
霊的な降り注ぎがないことの呪い
今日イギリスに見られるような霊的な欠乏――新異教信仰、教会が活気のない中流階級組織になり、道徳構造の根本的な破壊、家族観の崩壊、これらすべてのこと――はこの国が呪われていることによります。
イギリスは祝福されておらず、呪われています。1951 年には世界第三位の大きな経済を誇っていました。ドイツや日本などは言うまでもなく、イギリスはもはやイタリヤやフランスに対抗できないまでになっています。イギリスの経済的・政治的な減退は霊的な減退を反映しています。呪われてしまっているのです。
『もし、あなたがたがわたしに聞き従わ(ないなら)…あなたがたを憎む者があなたがたを踏みつける』(レビ 26 章 14 節-17 節)
2010 年には――私は自分の政治観と聖書観を区別するように心がけていますが――実際今
年、2010 年となり、イギリスの 80 パーセント以上、もしくは少なくとも 80 パーセントの法律が自分たちが選んだ国会によらず、厳密に言うとベルギー・ブリュッセルの官僚たちによって作成されています。
2010 年、イギリスの大半は自分たちが投票しなかった者たちによって支配され、経済、金融、商業規制などの領域、また外交や国防政策から始まって、法的、医療、法執行機関の領域においてますます自由の幅が狭くなっています。
この民主的なプロセスの停止はすでにイギリスとアメリカで行われており、遠くの話しで
はないのです。同じ方向に向かって動き出している呪いがイギリスとアメリカの上にはあります。
この呪いの兆候は、その国家に聖霊が降り注いでいないという現実なのです。そこには収穫はありません。
ビリー・グラハム伝道集会のような大きなイベント――よく運営され、財政的にも余裕のある集会――でさえ、国に関して言うまでもなく、教会を好転させることに何も貢献するところがありません。
しかしガーナやブラジル、韓国に行ってみると、そこでの教会の成長は信じられないほどのものです。なぜなのでしょうか。それはその国々に雨が降り注ぎ――聖霊が降り注がれているからです。
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メアイロー(Me’airoh)
次の単語は“メアイロー”、苦みという意味で――人の不幸を祈ることではなく、ののしること(憎む、嫌う、憎悪する)、憎しみを表現することです。この反対語は“愛”です。 神が旧約聖書と(部分的に)新約聖書を生み出すにあたって用いたヘブライ的な思考パターンと世界観を理解するためには、反対の原則を理解しなくてはなりません。何かを理解するためには、その反対を理解しなければならないのです。
この“メアイロー”の考え方は、人を愛さないことによって呪うということです。愛はこの種の呪いを断ち切ります。
クリスチャンがこの種の呪いの下に置かれる可能性はあるのでしょうか。あり得ます。イエスさまは言われました。
『もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。』(ヨハネ 15 章 18 節-19 節)
クリスチャンの女性で、未信者の夫から憎まれている人たちを私は知っています。救われたユダヤ人で家族から憎まれている人を私は知っています。そうです、クリスチャンはこの種の呪いの下に置かれることがあります。私たちは皆この種の呪いの下にいるのです。
『世全体は悪い者の支配下にあることを知っています』(1ヨハネ 5 章 19 節)
イエスさまは世が私たちを憎むと言われました。この意味において、クリスチャンは呪い
を受けることがあります。
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カラル(Kalal)
次の言葉は“カラル”です。
『ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出 せ。』(ゼカリヤ 8 章 13 節)
この“カラル”という言葉は“カル(kal)”、軽いことを意味する言葉(重くないということ)から由来しています。ヘブライ語での“重い”は“コヴァイド(kovaid)”といい、この言葉は肝臓(人体や哺乳類の体の中で最も大きな臓器)を意味します。
ヘブライ語で“敬う”という言葉は“コヴァッド(kovad)”であり、これはこのコヴァイド=重いことから由来しています。ヘブライ語の反対の原則がここで適用できます。“呪う”ことの反対は“敬う”ことです。誰かや何かを敬う場合、その対象は重みを持っているのであり、あなたに対して“重い”存在となっているのです。
あなたの父と母を敬え
何かが軽蔑されるなら、それは呪いを受けています。それは自分にとって軽くしか考えないものとなっています。物事は軽いか、重いかのどちらかです。
「あなたの父と母を敬え」という戒めのヘブライ的な概念は実際、父と母を自分にとって重いものとして扱わなければならないことを意味しています。誰かがあなたにとって重い存在であるなら、その人は重要だということです。
政界の大物が新聞でコメントをしていても、その人を好まないのなら、それは自分にとって軽いものにしかすぎません。その人をそれほど尊敬していないからです。
聖書を読んでいるときに、聖霊が何かについての確信を与え、聖書の内容を明らかにしたのなら、それは自分にとって重い事柄となります。
軽い=“カラル”の反対は、重い=“コヴァイド”であり、そのコヴァイドは実際的な敬意と尊敬である“コヴァッド(kovad)”とつながっているのです。
この意味においてクリスチャンは呪いを受けることがあり、自分で他者を呪うことがありえます。私たちが神の新しい被造物と見なされずに、他者から軽く扱われるならそれは一種の呪いです。しかし私たちが他の信者や自分の両親を特別自分にとって重い存在として
いなければ、私たちが彼らを呪っているのです。
実際に行うことにおいて、重く扱うという概念は責任とつながっています。神の設計において、私たちは自分の両親が老齢になったときの福祉について責任があります。
私たちは他の老人や、高齢者、定年退職した人のことを気にかけているかもしれません。しかし、自分の両親こそ私たちにとって重いものとなるべきです。もし両親の金銭的な満足についておろそかにしているのなら、私たちは彼らを呪っています。
聖書の中で両親を呪うという考え――これは旧約聖書の中で死に値することであり、新約聖書でもとても深刻な罪ですが――は自分にとって彼らを重い存在と扱わず、軽い存在であるとすることです。
私の家族はアイルランド系カトリック教徒とユダヤ教徒の組み合わせです。もし母と同じ部屋にいて聖書に関して話し始めたなら、議論が始まるのに 5 分とかかりません。あの女性はひどく私を苛立たせます。そのような母がいるので妻が来たときには私の準備はばっちりでした。
私は母の考えがあまり好きではなく、特に仲がうまくいっているわけでもありません。しかしそれでも母は私にとって重い存在なのです。母のことを考えるときいつも私はこう祈ります「主イエスよ。私の母を救ってください。父のように死んで地獄には行かせないでください。お願いです、彼女は私にとって重い存在なのです」
母は金銭的に適度に潤っています。もしそうでなければ彼女の世話をするのは私の責任となっていたでしょう。
もし私が母の世話をしなければ、彼女を自分にとって重い存在とせずに軽く扱い、呪っていることになります。この意味においてクリスチャンは呪いを受ける可能性があります。
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ケレム(Cherem)
“ケレム”とは、何かが悪い運命に渡されているということです。
『彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる [エリヤの奉仕について語っています] 。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。』(マラキ 4 章 6 節)
のろいで地を打ち滅ぼすということは、地が破壊されるために引き渡すということであり、神の定めた計画のために何かを廃れるに任せるということです。
この世は堕落していて、“ケレム”の下、呪いの下にあります。
『私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。』(ローマ 8 章 22 節)
自然災害――森林火災、火山噴火、地震、飢きん、干ばつなど――これらのものはすべて
人の堕落の産物です。
神は人にすべての被造物の支配をゆだねました。人が堕落した時、被造物も人と共に堕落しました。地質、物理、気象においてもある変化が起きたでしょう。
私たちは呪われた世界に住んでいます。ただ堕落した世界ではなく、呪われた世界なのです。この意味においてクリスチャンは呪いを受けることがあります。
エジプトは神の民を去らせなかったために、神のさばきに引き渡されました。しかしそのさばき――過越の祭りで祝うもの――がエジプトの上に注がれたとき、神の民はエジプトの中で、エジプトを通して守られました。私たちは呪いの中、呪いを通っても守られますが、それでも未だに呪いの下にいるのです。これらすべての意味において、クリスチャンは呪いを受けることがあります。
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カタラ(Katara)
ヘブル人への手紙はユダヤ人クリスチャンに対して書かれたため、初代教会におけるユダヤ的な考えを理解する上で重要なものです。
『土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。』(ヘブル 6 章 7 節)
この 7 節で新約聖書がいかにイザヤ 44 章とアモス 4 章の教え、雨が祝福であるということを繰り返しているかを気付いたでしょうか。この箇所は日々の農耕、日々の気象を用いて聖霊が降り注がれることについて教えています。
『しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。』(ヘブル 6 章 8 節)
これが堕落した世で起こっていることです。新約聖書はこの概念を“カタラ”呪いという言葉で繰り返しています。同じように被造物は呪いの下にあり、この呪いは私たちがただ世にいるからという理由でクリスチャンの上にも降りかかります。
『だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。』(ヘブ
ル 6 章 9 節-10 節)
被造物が呪われていて、私たちも呪いの影響下にあるにもかかわらず、神はそれを切り抜けさせ、呪いの中から私たちを救い出されます。しかしながら、この“カタラ”という言葉に先行する文脈を見てみましょう。
『一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで [このような人は救われた人です] しかも堕落してしまうならば [ギリシア語には現在形がなく、ただ現在進行形だけがあります――これは自分から戻れない状態まで堕落し続けてしまう人のことです] 、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。(土地は…そして雨と呪いについてこの箇所は語っています)』(ヘブル 6 章 4節-7 節)
すなわち、悔い改めない背教者は自分の身をもう一度呪いの下へ置いてしまいます
ただイエスにあって、私たちは呪いから救われているのであり、最終的に呪いから救い出 されるのです。イエスさまから離れてしまうと、あらゆる意味において自分を呪いの下に 再び戻してしまっています。後戻りし、作物を収穫する代わりにいばらを収穫するのです。この意味において背教したクリスチャンは呪いを受ける可能性があります。
『それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。』(マタイ 25 章 41 節)
同じ“カタラ”というギリシア語がここでも使われています。背教者は地獄の呪いの下へと自分の身を戻しているのです。
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カタル(Katal)
“カタル”というヘブライ語の単語がもうひとつあり、それは“悪を呼び下す”という意味です。クリスチャンは自分の身に悪を呼び下される可能性があります。
イエスさまの血は私たちを守りますが、このようなことから影響を受けないというのは非聖書的な教えです。
異教徒であったローマ皇帝は教会に呪いを呼び下し、迫害されたクリスチャンは殉教者として命を失いました。
私たちはこの意味において、確実に呪いを受けます。しかし神は言われます「あなたを祝
福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」。第二次世界大戦中、ナチスはユダヤ人の強制収容所の周りにひとつの壁を建てました。その壁を乗り越えて強制収容所から逃げ出そうとしたユダヤ人はみな機関銃で撃たれました。
数年経ち、ひとつの壁がかつて栄光に富んだ首都レイヒ、ベルリンに建ち、その壁を乗り越えようとするドイツ人はみな機関銃で撃たれました。これはほぼ 50 年間続き、その世代のドイツ人指導者が死ぬまで終わりませんでした。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」
デンマークやオランダのような国には信じ難いような度合いの性的不品行があります。デンマークのポルノ、オランダの薬物と性的な罪は悲惨なものです。神さまが今の時点までこのような国をさばいていないひとつの理由、おそらくその大きな理由は、ナチスがユダヤ人を出頭させ、黄色の星を身に付けなさいと命令したとき、デンマークやオランダの多くの人々が出てきて「イエスさまはユダヤ人だった、私もそうだ。この星を見なさい」と言ったからです。
福音派の人口が多いプロテスタントの国々では、人々はときには自分の命に代えてまでもユダヤ人を守りました。コリー・テン・ブームのような人のことを考えてみてください。
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アナセマティゾー(Anathematizo)
『しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません」と言った。』(マルコ 14 章 71 節)
ギリシア語の“アナセマティゾー”とは怒りをもって悪い事を言うということです。クリスチャンはこの意味において呪いを受けるのでしょうか。当然ながら受ける可能性があります。
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カタナセマティゾー(Katanathematizo)
“アナセマティゾー”と近い関係にある言葉が“カタナセマティゾー”であり、“愛する者
(家族など)を裏切る”という意味です。
『兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。』(マタイ 10 章 21 節)
クリスチャンは互いに裏切り合うようになります。特に終わりの日においてそれは顕著です。イエスさまがそう言われました。そして、迫害の時にはこのように呪いを受けること
があります。
もはや律法の呪いの下にはいない
私たちはこれまで、信者が呪われると聖書が語っているすべてのケースについて見てきました。
『というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」のだからです。しかし律法は、「信仰による」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる」のです。』(ガラテヤ 3 章 10 節-12 節)
律法の主要な目的は、ユダヤ人たちに自分は律法を守れないと教えることであり、神の基 準に決して届かないということを知らしめるためでした。彼らに必要だったのは救いをも たらすメシアだったのです。私たちはただイエスの中にあって律法を守ることができます。それはイエスさまが律法を私たちのために成就されたからです。
律法の下に自分を引き戻す宗教に入ってしまうと、自分では決して実践することの出来ない基準を打ち立てることになります。
イエスは言われました。
『あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれていま す。』(ルカ 7 章 28 節)
なぜでしょうか。
バプテスマのヨハネは、良いわざによって成し遂げられる究極の義の基準を象徴していたからです。彼が究極の遵守者でした。行動の基準においてヨハネより優れていたり、より宗教的であった宗教者は誰もいません。バプテスマのヨハネは他には例をみない人物であり、母の胎にいたときから聖霊に満たされていました(ルカ 1 章 15 節)。
古代ユダヤの異端であったエビオン派(Ebionism)が間違ってイエスについて信じていたこと――イエスが独特な霊感を受けた者であったという教え――は実際バプテスマのヨハネに関して真実なことでした。イエス、またおそらくアダムを除いて、ヨハネはそれまで存在した中で最も特異な人物でした。
「しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています」これはなぜなのでしょう
か。
新生し、律法を成就されたイエスの義を持つ者は、自分の良いわざによって得られるどんな正しさよりも優ったものを持っているからです。
ヨハネは人が到達できる最高頂を象徴しています。しかしイエスの義はそれをはるかにしのぐのです。
宗教はキリスト教の反対である
ローマ・カトリック教徒のように律法の下にいる人たちを見てください――小さな老婆がバチカンの階段を関節炎の膝を使ってはい上がり、祈りとビーズをもって、煉獄(カトリックが死後天国に行く前に自分の罪を償うために行くと教える場所)から逃れられることを望んでいるのです。イエスさまはそのような罪悪感と抑圧から人々を自由にするために来られました。このような教えは人々を律法の呪いの下へと引き戻します。
モルモン教――アメリカ・ユタ州の人口の 70 パーセントがモルモン教徒です。ユタ州は他から抜きん出て最高の自殺率を記録しています。なぜでしょうか。モルモン教徒は律法の下にいるからです。罪悪感は、モルモン教の基準を達しないという無力さから来ます。イエスさまはそのようなものから人々を自由にするためやって来たのです。
正統派ユダヤ教徒――彼らの多くがノイローゼです。宗教は人をおかしくします。宗教というものは確実に一種の精神病です。罪深い人間がどのようにして完全で聖い神の基準に達することができるのでしょう。この理由で、神は人となり、私たちが決して出来ないことを行わなくてはならなかったのです。
宗教は福音を無力にします。宗教はキリスト教に根本的に反対するものです。宗教の中にいる人たちは律法の呪いの下にいます。それはユダヤ人でも異邦人でも問題ではないのですが、ここからはユダヤ人に目を向けてみましょう。
『というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」のだからです。しかし律法は、「信仰による」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる」のです。』(ガラテヤ 3 章 10 節-12 節)
わたしの選んだ者たち
「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、の
ろわれる」この箇所はユダヤ人についての具体的な意味がありますが、すべての堕落した
人間にも適用されます。レビ記 26 章や申命記 28 章の恐ろしい呪いを見てみてください。
『わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たち [異邦人たち] に、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民 [異邦人たち] に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。わたしは、反逆の民 [ユダヤ人] 、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。』(イザヤ 65 章 1 節-2 節)
『それゆえ、神である主はこう仰せられる。「見よ。わたしのしもべたちは食べる。しかし、あなたがたは飢える。見よ。わたしのしもべたちは飲む。しかし、あなた がたは渇く。見よ。わたしのしもべたちは喜ぶ。しかし、あなたがた [ユダヤ人] は恥を見る。見よ。わたしのしもべたちは心の楽しみによって喜び歌う。しかし、 あなたがたは心の痛みによって叫び、たましいの傷によって泣きわめく。あなたが たは自分の名を、わたしの選んだ者たちののろいとして残す。それで神である主は、あなたがたを殺される。ご自分のしもべたちを、ほかの名で [クリスチャンと] 呼 ばれるようにされる。』(イザヤ 65 章 13 節-15 節)
神はイスラエルとユダヤ人に関して終わりの時代の目的を持っていますが、彼らは今呪い の下にいます。救われていないユダヤ人たちは呪われています。彼らは呪いの下にいます。堕落した人間はすべて律法の呪いの下にいますが、ユダヤ人は律法を前もって持っていた のでなおさら呪いの下にいます。
ここで「律法」が何であるかを説明しましょう。律法は風船のようなものです。風船にヘリウムガスを入れなければ重力の法則によって風船はいつも地に落ちていきます。もしその中にヘリウムガスを入れたなら、それは空気より軽いため、重力の法則より浮力の法則がまさり、風船は浮き上がるようになります。
ヘリウムガスは聖霊のようなものです。ただ恵みの律法の下に来て、神の聖霊が自分の中に宿り、イエスさまの義を生み出してもらわない限り、神を喜ばせる生活はできません。風船に空気を入れてもそれを浮き上がらせることは決してできません。重力より強い法則を使うしかないのです。
そのより強い法則は恵みです。それは古い契約よりも強い新しい契約です。人類はすべて古い契約の呪いの下にいます。
ユダヤ人は律法を前もって持っていたので、結果的に責任をより求められます。さばきは最初にユダヤ人に来ます。
『…福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救い
を得させる神の力です。
患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。』(ローマ 1 章 16 節、2 章 9 節-10 節)
最初ユダヤ人にとって救いが手に届くところにあったために、福音を退けたことの結果は彼らに最初にやってきます――ホロコースト、スペインの異端尋問、十字軍、ユダヤ民族の極度の苦しみがそうです。
神は何と言われていたでしょうか。「わたしはあなたがたを敵の手に渡す」。これは反セム主義やユダヤ人の迫害を正当化することでは全くありません。むしろユダヤ人は神のみこころの中にあってだけ安全でいられるということです。いったんみこころから外れてしまうと、律法の呪いのために、彼らは自分たちを呪うことになってしまいます。
罪のための備えはない
救われていないユダヤ人たちは呪われています。実際律法の下にいて罪のための規定が無いため、彼らは二重に呪われています。
神殿にささげられたいけにえに関していうと、それが正式な祭司によってささげられ、適切な状況の下で、それに信仰と悔い改めが伴っていたなら、ユダヤ人たちはいけにえによる贖いを受けていました。
これら動物の血はメシアが来て、罪を取り去るまで、罪を覆っていました。
しかし現在、彼らのための備えはありません。神殿も無ければ大祭司職も無いからです。現在、存在していている唯一の神殿はキリストのからだです。新約聖書において7回、教会は幕屋であると書かれています。
私と私の家族は過越の祭りを子羊の肉をもって祝います。救われていないユダヤ人たちは、子羊の代わりに鶏肉を食べます。彼らには神殿、祭司職が無いからです。ユダヤ人信者は ひとつの神殿とひとりの祭司を持っています。新しい大祭司はイエスさまです。大祭司が 存在しているので、私たちは過越に子羊をもって参加できるのです。
すべての正統派のシナゴーグ(会堂)にヘブライ語で「イ・カボデ(栄光は去った)」と書かれているのは、神殿が破壊されたという事実を認めているからです。
現代のユダヤ人の宗教はモーセの宗教ではありません。ローマ・カトリックやリベラルなプロテスタント、ギリシア正教会、モルモン教、エホバの証人らが新約聖書のキリスト教ではないのと同じように、ラビ的ユダヤ教は全くもって旧約聖書のユダヤ教ではありません。ラビ的ユダヤ教は、ラビ・ヨハナン・ベン・ザッカイによって創始された別の宗教です。
彼らはそうは認めないでしょうが、彼らの礼拝と祝祭がそれを証明しています。もしラビ
的ユダヤ教が同じ宗教ならば、どうしてトーラーが命じているように過越の食事をしないのでしょうか。
ただ一度だけで
ユダヤ人は呪われています。イエスさまだけがその呪いを断ち切ることが可能であり、実際そうなされました。ヘブル人への手紙の3箇所においてイエスさまは一度だけ死なれたとあります。
『また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。』(ヘブル 7 章 26 節-27 節)
『しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。』
(ヘブル 9 章 11 節-12 節)
『このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。』(ヘブル 10 章 10 節)
偽りのキリスト教は何らかの形でイエスの十字架を否定します。ローマ・カトリック、エホバの証人、モルモン教、コープランドとヘーゲン――彼らはイエスが霊的に死んで、サタンのような存在になったと教えていますが――これらすべてのものは十字架を否定しています。
しかしイエスは完全ないけにえであり、一度で十分でした。イエスさまはご自分の民の生活から律法の呪いを永遠に取り去りました。キリスト・イエスのうちにある者にとってはすべてが新しいのです。しかし何かの事柄が新しいものではないと言い始めるとき、それはイエスさまが十字架の上でなされた働きの十全性を巧妙に否定するものとなってしまいます。
ラザロをほどく
イエスさまがラザロを墓から呼び出されるとき、弟子たちに「石をとりのけなさい」と言
われました。その後、ラザロに墓から出るように命じられました。
ラザロが出てきたとき、弟子たちに「ほどいてやりなさい」と言われました。
これはミドラッシュ的な伝道の描写です。墓とはこの堕落した世です。私たちが誰かに証しをするときに石はとりのけられます。私たちが行う唯一のことは、人々にイエスさまの声を聞かせることです。唯一、人の子だけが死んでいる者をいのちへと呼び起こします。もしイエスさまが「ラザロよ、出てきなさい」と名指しで言わなかったら、この世のすべての死者が目を覚ましただろうと言う人もいます。
石をとりのけることは伝道です。人々はただイエスさまの声が聞こえた場合にだけ墓から出てきます。聖霊によって確信を与えられ、御父に引き寄せられ、イエスさまの声を聞かないかぎり、人は救われることはありません。
人が墓から出てきたとき、イエスさまは私たちに向かって「ほどいてやりなさい」と言われます。私は祈りやカウンセリング、弟子訓練の必要性を否定しません。上記に記した場合以外にクリスチャンが呪われることがあるのを私は否定しません。しかしクリスチャンは、意図的に堕落し、自分自身を律法の下に引き戻さない限り、律法の呪いの下に来ることはありません
おばあちゃんが占い師だったから
私は昔よく占い師のもとへ行き、タロットカードを読んでもらっていました。私は初対面 の人に会い、その人の星座を言い当てることができ、多くの場合それは当たっていました。しかしそのようなことをしていた人物はもう死んだのです。魔術と関わっていたジェイコ ブ・プラッシュはもう死んでいます。
悪魔はいつもあなたに十字架を否定するようにけしかけます。悪魔は人々に次のようなことを言わせたいのです。「私の祖父が魔術師だったから、わたしのおばあちゃんが占い師だったから…。だから私は呪いの下にいて、人生のすべてのことがうまくいかないんです」悪魔は嘘を付く者です。イエスは「完了した」と言われました。イエスさまが十字架にかけられた時、私は彼と共に死に、あなたも彼と共に死んだのです。
私たちが毎日死ぬ必要があるのも事実です。自分の十字架を負い、イエスさまについていくのです。古い人はいつもそこにあります。私たちは同じ古い家に住んでいるのです。しかし霊に関しては、私たちは新しい人です。あの古い人は死んだのです。
悪魔はいつも、私たちに古い人の中で生きさせようとし、私たちが新しい人でないかのように思わせます。悪魔はいつも私たちを肉の中で生きさせようとするのです。
今あなたは新しい人
「私はこのことやあのことのために呪われている」と言い始めるなら、それは自分を律法
の下へ引き戻すことです。
あなたは呪われてはいません。キリスト・イエスにあって新しい人です。その呪いは十字架において砕かれました。悪魔が嘘を付き、異なったことを言うのを許しておいてはいけません。
色々なしがらみから自由にされることが必要でしょうか?もちろん。祈りが必要でしょうか?もちろん。カウンセリングは必要でしょうか?もちろんです。
しかしあの“呪いを打ち砕く”という現代の多くの教会で教えられているものは、全く十 字架のわざを信じず、自分を律法の呪いの下へと引き戻していることにすぎません。自分 の人生に告白していない罪があるなら、その罪を悔い改めてください。それが解決策です。しかし、あの“呪いを打ち砕く”というくだらないものは忘れてください。
信仰のゆえに迫害されて、人々が自分の上に悪を呼び下しているのなら、もちろん、あなたは呪いを受けています。私たちはみなその意味で呪われています。イエスさまは私たちをそこから切り抜けさせ――みこころとそれにかなった時に――そこから救い出してくださいます。
しかし、旧約聖書の呪いが自分の上にあると言うことは十字架の否定です
あなたは新しい人です。あなたは何かに縛られているかもしれません。心理的にも、感情的にもあなたを抑圧している何かがあるのかもしれません。祈りやカウンセリングが必要であるかもしれません。私はそれを否定しません。私たちの生活の中にサタンの要塞があるという考えを私は否定せず、それは実際、悪魔が利用できる古い性質の中の弱さであると私は考えています。それを要塞であるというよりも、弱さであると考えましょう。
インスタマチックな社会
私たちが新しい人のうちで生きれば生きるほど、より肉に打ち勝つようになります。しかし人々は即座の解決策を探します。言い換えると、肉は十字架を負いイエスについて行きたくはないのです。
私たちは“インスタマチック化された(何でも便利になった)”社会に住んでいます。自分の十字架を取り、イエスさまに対して恵みや、信仰の忍耐、祈りにおける聖い生活を送ることを望まず、人々は出て行って悪霊を追い出してほしいと考えます。
自分の問題に目を向けることをせず、こう言いましょう。「主よ。私はなぜこのような問題を抱えているのでしょうか。何を教えようとされているのでしょうか。このことを用いて私をどのようにイエスの御姿に似させてくださるのでしょう。この問題を使ってどのように私の人生に良いことを導き入れられるのでしょう。この苦しみを通してどのように私
を祝福されるのでしょうか」
私たちに悪いことが起こるのを神がお許しになる場合、それはただ終わりに私たちに良いものをもたらすためなのです。大抵の場合、神のなさっていることは後になって思い出してみないと分かりません。私たちは目に見えるところによって歩むのではなく、信仰によって歩みます(もちろんあなたがケネス・ヘーゲンに従っていなかったらの話ですが)。
福音を再文脈化する
福音を私たちの世界観のために再文脈化するのは完全に有効な手段です。パウロは言いました。『すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。』(1コリント 9 章 22 節)
私と私の家族は豚や甲殻類を食べません。それは私の証しとしてユダヤ人たちに対して悪いものとなるからです。私たちにとって食べないほうが良いので、そうはしません。
すべてのことが許されたことですが、すべてのことが益になるのではありません。それは私にとっては正しくないのですが、あなたにとってはどうぞと言うでしょう。何を気にすることがあるでしょうか。
この国(イギリス)では主の聖餐をぶどう酒で祝っても、グレープジュースで祝っても私はどちらでも満足します。あなたの教会がすることなら何でもしましょう。このことは問題ではないからです。
しかし、アルコール依存症があれほどの問題になっているアイルランドに行ったなら、私はどんな公の席でも、アルコールに触るのを見られたくはありません。それは私が主の聖餐をぶどう酒をもって祝うことに問題を感じているからではなく、その状況(文脈)としては私の証しのために良くないからです。私たちのインスタマチック化された社会では人々はすぐに手に入る喜びのために、福音を再解釈します。再文脈化は正しいものですが、再解釈や再定義は間違っています。
私たちは大量消費の世界に生きています。すべてが消費されることを目的とされています。広告業界は人々に常に消費するように促しています。繁栄の神学は西洋の大量消費観にし たがって再定義、再解釈された福音です。
私たちは高度技術の社会に住んでいます。「ハードウェアに合ったソフトウェアを買えば、あなたのパソコンは思うがまま」と考え、このため人々は正しい教会成長プログラムを手に入れさえすれば教会は成長すると考えてしまっています。
私は人が救われることに反対しているのではありません。私が言おうとしていることは
“正しいプログラム”を手に入れることはリバイバルをもたらさないということです。
私たちは物事をすぐに手に入れたがります。自分の十字架を背負い、イエスさまについて行くことは容易ではありません。あなたが何度呪いを打ち砕いたかは私は気にしません。
それはあなたの問題を解決しないからです。あなたがその下にいたことがある呪いはすべ
て十字架によって打ち砕かれました。呪いは自分が救われる前にしたことや、あなたの祖父がしたことと何の関わりもありません。
だれでもキリスト・イエスのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。悪魔は真理を否定させ、十字架を否定させたいのです。
私たちが日々死ぬことは事実です。イエスとひとつであると見なされることにより、彼の死と復活を通して私たちは自由を得ます。このことは呪いを打ち砕くことによってはやってきません。御霊の力のうちにあって、十字架につけられた、復活のいのちを生きることによってあなたは自由を見出します。
もしかしたら、あなたにとって十字架につけられた生活とは、人間関係や金銭的、健康的な問題で四苦八苦することを要求するかもしれません。それがあなたの十字架かもしれません。すべてのことが働いて益となります。神はご自身の方法と時を用いて、あなたにとって最善である手段を使って自由にされます。
その十字架は呪いですが、必要悪でもあります。十字架無しにはよみがえりはありえません。十字架を通してイエスさまはあなたを自由にされます。
クリスチャンはどのように呪いを受けるのでしょうか?
私たちクリスチャンは尊敬される代わりに軽くあしらわれます。私たちはその意味で呪われます。自分の国に悪が呼び下されるでしょう。それは西洋ヨーロッパ諸国でまさに起こっています。人々は私たちに関して悪く語り、怒りを持って私たちを呪うでしょう。
しかし私たちが律法の呪いの下に戻る唯一の方法は、私たちがそこに後戻りすることです。クリスチャンにとってそうして呪われる唯一の方法は、イエスを否定することにより、自 分をその下へ引き戻すことです。
この場合を除いて、悪魔は自分たちの問題を誤診させ、人々に聖書的な解決策を見つけないようにさせます。
だれでもキリスト・イエスのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。イエスの十字架は一度だけで十分です。あなたが呪いを受ける唯一の時は、十字架を投げ去るときです!