カシュルートと飢饉
ジェイコブ・プラッシュ
ヘブライ人の食事規定の律法は申命記 14 章と、レビ記 11 章に見受けられます。そのうち
レビ記 11 章はより包括的なものです。
『それから、主はモーセとアロンに告げて仰せられた。
「イスラエル人に告げて言え。地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物は次のとおりである。動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているもののうちでも、次のものは、食べてはならない。
すなわち、らくだ。これは反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなた がたには汚れたものである。それから、岩だぬき。これも反芻するが、そのひづめ が分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。 [反芻し、ひづめが分 かれていないといけないということ] また、野うさぎ。これも反芻するが、そのひ づめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。それに、豚。これ は、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものであるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。あなたがたは、それらの肉を食べてはならない。またそれらの死体に触れてもいけない。それらは、あなたがたには汚れたものであ る。
水の中にいるすべてのもののうちで、次のものをあなたがたは食べてもよい。すなわち、海でも川でも、水の中にいるもので、ひれとうろこを持つものはすべて、食べてもよい。しかし、海でも川でも、すべて水に群生するもの、またすべて水の中にいる生き物のうち、ひれやうろこのないもの [言い換えると甲殻類など] はすべて、あなたがたには忌むべきものである。これらはさらにあなたがたには忌むべきものとなるから、それらの肉を少しでも食べてはならない。またそれらの死体を忌むべきものとしなければならない。水の中にいるもので、ひれやうろこのないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである [“忌むべきもの”という言葉がこの章全体で繰り返されています] 。
また、鳥のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべ
きもので、食べてはならない。すなわち、はげわし、はげたか、黒はげたか、とび、はやぶさの類、烏の類全部、だちょう、よたか、かもめ、たかの類、ふくろう、う、
みみずく、白ふくろう、ペリカン、野がん、こうのとり、さぎの類、やつがしら、
こうもりなどである。
羽があって群生し四つ足で歩き回るものは、あなたがたには忌むべきものである。しかし羽があって群生し四つ足で歩き回るもののうちで、その足のほかにはね足を持ち、それで地上を跳びはねるものは、食べてもよい。それらのうち、あなたがたが食べてもよいものは次のとおりである。いなごの類、毛のないいなごの類、こおろぎの類、ばったの類である。このほかの、羽があって群生し四つ足のあるものはみな、あなたがたには忌むべきものである。
次のことによっても、あなたがたは汚れたものとなる。すなわち、これらのものの 死体に触れる者はみな、夕方まで汚れる。また、これらのどの死体を運ぶ者もみな、その衣服を洗わなければならない。
その人は夕方まで汚れる。ひづめが分かれてはいるが、それが完全に割れていない か、あるいは反芻しない動物、これらすべてはあなたがたには、汚れたものである。これらに触れる者はみな汚れる。また、四つ足で歩き回るすべての生き物のうちで、足の裏のふくらみで歩くものはみな、あなたがたには、汚れたものである。その死 体に触れる者はみな、夕方まで汚れる。これらの死体を運ぶ者は、その衣服を洗わ なければならない。その人は夕方まで汚れる。これらは、あなたがたには、汚れた ものである。
コシェル - イーデッィシュ語。ユダヤ教の儀式律法によ
って“きよい”とされる食べ物を表す言葉
カシュルート - “きよい”または“汚れている”といった食べ物を定めている律法全体を表す言葉
地に群生するもののうち、次のものはあなたがたにとって汚れている。すなわち、もぐら、とびねずみ、大とかげの類、やもり、わに、とかげ、すなとかげ、カメレオンである。すべて群生するもののうちで、これらはあなたがたには、汚れたものである。これらのものが死んだとき、それに触れる者はみな、夕方まで汚れる。また、それらのうちのあるものが死んだとき、何かの上に落ちたなら、それがどんなものでも、みな汚れる。木の器、あるいは衣服、あるいは皮、あるいは袋など、仕事のために作られた器はみな、水の中に入れなければならない。それは夕方まで汚れているが、そうして後きよくなる。また、それらのうちの一つが、どのような土の器の中に落ちても、その中にあるものはすべて汚れる。その器は砕かなければならない。また食べる物で、それにそのような水がかかっていれば、それはみな汚れる。また飲む物で、このような器の中にあるものはみな汚れる。さらに、どんなも
のでも、その上にこれらの死体の一つが落ちたものは汚れる。それがかまどであれ、
炉であれ、それを粉々に割らなければならない。それは汚れており、あなたがたには汚れたものとなる。
しかし、泉、あるいは水のたまっている水ためはきよい。ただし、それらの死体に触れるものは汚れる。また、もしそれらのどの死体が、蒔こうとしている種の上に落ちても、それはきよい。しかし、種の上に水がかけられていて、その上に、それらの死体のあるものが落ちたときは、それはあなたがたには汚れたものである。
あなたがたが食用として飼っている動物の一つが死んだとき、その死体に触れる者は夕方まで汚れる。その死体のいくらかでも食べる者は、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。また、その死体を運ぶ者も、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。
また、地に群生するものはみな忌むべきもので、食べてはならない。地に群生する もののうち、腹ではうもの、また四つ足で歩くもの、あるいは多くの足のあるもの、これらのどれもあなたがたは食べてはならない。それらは忌むべきものである。あ なたがたは群生するどんなものによっても、自分自身を忌むべきものとしてはなら ない。 [あなたがそれを食べると、あなた自身も忌むべきものとなってしまうとい うことに注目してください] またそれによって、身を汚し、それによって汚れたも のとなってはならない。
わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。地をはういかなる群生するものによっても、自分自身を汚してはならない。わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」
以上が動物と鳥、また水の中をうごめくすべての生き物と、地に群生するすべての生き物についてのおしえであり、それで、汚れたものときよいもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とが区別される。』(レビ記 11 章 1 節-47 節)
食べ物が無いことは飢饉
新約旧約間の時代にはマカベア家という人たちが登場しましたが、イスラエルには預言者がいませんでした。マラキの時代からバプテスマのヨハネまで預言者はひとりも出なかったのです。バプテスマのヨハネはエリヤの霊をもって、飢饉の中にある神の民を養いました。
同じことがイエスの再臨される前にも起こります。みことばを聞くことのききんがやってくるのです。
『見よ。その日が来る。――神である主の御告げ――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。』(アモス 8 章 11 節)
エリヤが異邦人の女とその息子を養ったことは、終わりの日においてなされるエリヤの奉仕の予型でもあります。
公衆衛生
この食物規定の律法は興味深いものです。イエスは
『口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。』(マタイ 15 章 11 節)
と言われました。なので、この律法は明らかに公衆衛生に関すること以上の意味を持っていたことが分かります。しかしこのことから考えてみましょう。
古代の中近東において、砂漠で保存がきかないという環境のために動物たちは腐った肉を食べていました。そのことにより動物が何らかの病気を持っている可能性が高かったのです。特に旋毛中病やボツリヌス中毒のような病気が、特定の食物を食べることによって感染する危険がありました。豚肉や貝類など―きちんと冷凍・保存され、適切に調理されなければ、そのような環境で食べることは人を死に至らせる可能性があったのです。
このようなことを考えると、レビ記 11 章に書かれている食物を食べないことのもっともな理由が医学的にも存在していたことが分かります。
飢饉の中にいる人は何でも食べる
しかし飢饉の中では、人類学者たちが言うのですが、最も文明化された社会に住んでいる人でさえも食べる物を選ばないのです。
例えば船が難破してしまったときの生存者の事例があります。そこでは共食いの習慣に逆戻りし、自分の友達の肉体を食べ始め、さらには自分の家族の肉まで食べるようになってしまいました。
47 節に注目してください。この箇所では“コシェル”と“コシェルでない”もの、きよいものと汚れたもの、食べてよいものと食べてはならないものとの区別を付けるようにと言われています。
“コシェルでない”ものはすべて忌むべきものであり、
ひどく不快に感じるべきものです
この章では繰り返し、“コシェルでない”ものは忌むべきものであり、忌まわしいものだと語っています。それらを食べようと考えただけで不快に感じるべきなのです。これらのもの―ねずみ、蛇、こうもり、ゴキブリなどは、あなたにとって忌むべきものであって、嫌気がさすべきものなのです。
こういうものを食べる自分の姿を想像してみただけで、気持ち悪くなることでしょう。
しかし、飢饉の中で人は空腹に耐えられなくなると見境なしに物を食べます。互いの肉をむさぼって食べることさえするのです。
神は肉体をとられた
『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。…ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。…』(ヨハネ 1 章 1 節、14 節)
ギリシア語で“住む”という言葉は“カタスケノー(kataskenoo)”といいます。これはヘブライ語の“幕屋を張る”という動詞のギリシア語の翻訳です。
幕屋をヘブライ語では“ミシュカン(mishkan)”といいます(ここからシェキナーという言葉が来ています)。“ミシュカン”とは神の宿る場所を示しています。ヨハネは古代イスラエルにおいて臨在を示されていた神―幕屋に宿っておられたシェキナーが、今肉体をとられたと書いているのです。
神が人となられた
古代ギリシア人は二元論を信じていました。彼らは“ロゴス”について理解し、それが神の創造の仲介者であり、救いの仲介者であることを知っていました。しかし彼らの神のイメージは超越した存在というものでした。
彼らに「神は人となられて、ことばは人となった」と言ったとたんに、ギリシア人はその考えをどう捉えてよいものか分からなかったことでしょう。
ギリシア人は物質的なものはすべて悪であり、霊的なものはすべて善であると信じていました。物質的なものはすべて階級の低い神の支配下にあると考えていたからです。
このような考えがいかに聖書の真実を歪めてしまうかを考えてみてください。
聖書は物質的なものはすべて悪であるとは言っていません。むしろ聖書は物質的なものは堕落しており、一時的にサタンの支配下にあると教えているのです。
サタンはいつでも真理を曲げようとして嘘を付きます。
二元論
ギリシア人の中には二つの集団がありました。ストア派とエピクロス派です。
ストア派は物質的なものをすべて否定して、禁欲的な生活を送り、肉体の苦行に重きを置いていました。
一方エピクロス派は欲望に身を任せた生活を送っていました。彼らは霊的な領域だけが大切であると考えていたのです。
どちらの集団も物質の世界と霊の世界には分裂があると教えていました。
神が人となられたというヨハネの教えは、この二元論的なギリシア人の考えとは正反対だったのです。
二元論には多くの形態があります。クリスチャン・サイエンスは二元論的です。彼らは何 を教えているのでしょう。「私の体は嘘を付いている。体のいうことは気にしなくていい。物質的なことではなく、霊的なことだけが大切なのだ。死は幻想で、年を取ることも幻想 である」
クリスチャン・サイエンスの創始者であるメアリー・ベーカー・エディは、最初に老齢という幻想の犠牲者となり、次に病気の幻想に陥り―最後には死という幻想に飲み込まれました!
E・W・ケニオンやケネス・ヘーゲン、ケネス・コープランドなどは、クリスチャン・サイエンスから学んだ二元論を同じく教えています。
聖書は、私たちはこの世の中にいるように召されているが、この世のものとはなってはいけないと言っています(ヨハネ 15 章 18 節-19 節・16 章 33 節、ローマ 12 章 2 節、ガラ
テヤ 6 章 14 節、コロサイ 2 章 20 節、ヤコブ 4 章 4 節、1 ヨハネ 2 章 15 節、17 節)
私たちは“不自然”となるようには召されていません。しかし、“超自然”になるように召されています。
何が“不自然”であるかを説明しましょう。「霊的な男の人や女の人に苦しみを与えることを神が欲しておられるなら、それを喜ぶべきだと」いうものはクリスチャンの持つべき教えではありません。
そのようなことは自然ではなく、不自然です。また宗教的なマゾヒズムです。イエスの例を考えてみましょう。イエスは『父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください』と言い、苦しみを受けることを望みはしませんでした。しかしイエスは『わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください』(ルカ 22 章 42 節)と言われたのです。
主のみこころであったとしても、霊的な信者は喜んで苦しみを受けるということは不自然
です。しかし「主よ、すべてのことが益となります。もし、主がこれを最適なことであるとされるのなら、苦しみを耐えるための恵みをください」と言うことは超自然です。
私たちは自然であるように召されています。また超自然であるようにも召されています。
しかし、不自然になるようには召されていません。
初代教会はこの極端な二元主義やグノーシス主義、またそれに付随するものに反対しており、現代の私たちも“ハイパー・フェイス”を教える教師たちの中に同じものを見つけることができます。
ことばは人となった
『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。』(ヨハネ 1 章 14 節)
ヒエロニムス(A.D.340-420)が“人”という言葉をラテン語のウルガタ聖書で訳したとき、彼は“コープス(corpus=体)”という言葉を使わずに、“肉”を意味する“カルナム(carnum)”と訳しました。この箇所のギリシア語は“サルクス(sarx)”であり、文字通りには“肉となった”という意味なのです。
ギリシア語で肉“サルクス(sarx)”は肉体と同じ言葉です。
ヘブライ語で肉とは“バサール(basar)”であり、肉体と同じ言葉です。 ラテン語でも肉とは“カルナム(carnum)”であり、肉体と同じ言葉です。
『まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉(sarx)です。」』(ヨハネ 6 章 47 節-51 節)
「ことばは“サルクス”になった」という箇所と同じように、今度は「私が与えようとするパンはわたしの“サルクス”―肉―」だとイエスは言われました。
『すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論し合った。』(ヨハネ 6 章 52 節)
ミドラッシュによって教育されていたサンヘドリンの人たちは、イエスが何について話しているのかを理解していて当然でした。
『イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。
わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わ
たしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを 遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによ って生きるのです。これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食 べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」』
(ヨハネ 6 章 53 節-58 節)
イエスはご自身のことを天から下って来たパンと言われました。荒野で降っていたマナは予型であり、イエスがその対型です。
私たちは聖書の本文を文脈にそって読まなければなりません。同様に聖書全体の文脈(背景)も踏まえて読む必要があるのです。
ラビたちは過越の祭りで使われるマッツァーというパンが、ほふられる子羊の肉に関連していると言います。そのパンは子羊の肉と関係があるために、しま模様が入れられ刺し通されなくてはならなかったと言われます。
『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷(むち打ちの場合はしま模様の傷)によって、私たちはいやされた。』(イザヤ 53 章 5 節)
イエスがご自身の体を“パン”と語られたときには、ラビたちと同じ観点でそう言っておられました。過越の祭りが出エジプト記から来ていることを考えると、イエスの言われたことはその祭りと関係しており、マナが降り始めたときと関連していることは確かです。
これはカトリックのミサと何の関係もない
ローマ・カトリック教会は主の聖餐を永遠のいのちへ至る鍵であると言うでしょう。しかしそれはばかげたことです。彼らのカテキズム(公教要理)の中では、洗礼と懺悔(ざんげ)の秘蹟によって罪が赦されると教えています。その中に聖体(イエスご自身とされるパン)をいただくことは含まれていません。ということはカトリックは彼らの教理に対して矛盾しているのです。(ローマ・カトリックの教理はモルモン教の教理と同様に、いつも教理自体が矛盾をかかえています)
ヨハネ 6 章 47 節から 58 節が、主の聖餐のことを語っているなら(カトリック教会はこの箇所と主の晩餐を同じように見なしているため、聖餐が永遠のいのちへ至る鍵だと教えています)、主の聖餐が行われた最後の晩餐について語っているはずです。最後の晩餐は、エルサレムにおいて過越の祭りの時期に行われたものです。しかし、この箇所(ヨハネ 6 章
25 節-65 節)はそれが過越の祭りの時期ではなく、またエルサレムでのことではないということを明らかにしています。
従ってこの箇所が最初に意味することは、最後の晩餐についてでも、主の聖餐についてでもありません。
ここで話されていた内容というのは「荒野で下ったパン」―それがイエスの予型であり、イエスはそれが自分の体だと言っていたのです。
『まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。』(ヨハネ 6 章 47 節)
“食べる”ことと信じることは同じです。どうしてそう言えるのでしょうか。ことばは人となり、ことば(ロゴス)は“サルクス(肉)”となったとあるからです。「サルクスを食べなさい。ことばを信じなさい」私たちは聖書本文を文脈にそって読まなければなりません。この箇所は“化体説”(奇跡的に聖餐のパンが実際イエスの肉体となり、ぶどう酒が血となるという教え)と何の関係もなく、そのようなことは共食いであり、最後の晩餐とは確実に関係がありません。
イエスは『わたしを覚えて、これを行ないなさい』(1 コリント 11 章 24 節-25 節)と言われました。彼はヘブライ人の“記念のささげ物”という概念を用いていたのです。ローマ・カトリックのミサはカルバリの丘でささげられたいけにえとは 同じものではありません。主の聖餐をユダヤ人的な過越の祭りであると理解したなら、それはユダヤ人の“ヅィカロン(zikharon)”であることが分かります(「記念として」参照…出エジプト 12 章 14 節・13
章 9 節・17 章 14 節・28 章 29 節、レビ記 23 章 24 節など)。
最後の晩餐をそのユダヤ人的な背景から切り離して考えたときにだけ、ミサでのパンがカルバリの丘でささげられたものと同じだと言えるのです。しかし、イエスはそのことをユダヤ人の間で言われたのであって、それが同じだと言うことはできません。晩餐(聖餐)は記念として行われるものなのです。『わたしを覚えて、これを行ないなさい』それはイエスがなされたことの記念であり、過越の食事がエジプトから救われたことを記念するためであったのと同じことです。
食べる者は信じる
ことばは人となりました。「わたしの肉を食べなさい」これはどういう意味なのでしょうか?それは「わたしのことばを食べなさい」という意味です。イエスのことばを自分の中に取り入れるのです。
これは新しい教えではなく、預言者たちも同じことを教えていました。後に使徒たちも同じことを教えています。
『私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。』(エレミヤ 15 章 16 節)自分の中にみことばを取り入れ、信じるということです。それがイエスがわたしの肉を食べる者は信じると言ったことの意味なのです。
『人の子よ。わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」そこで私が見ると、なんと、私のほうに手が伸ばされていて、その中に一つの巻き物があった。それが私の前で広げられると、その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。
その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、そして仰せられた。
「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。』(エゼキエル 2 章 8 節-3 章 3 節)
エゼキエルはその巻き物を食べました。彼は神のことばを食べたのです。
『それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい。」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。』(黙示録 10 章 9 節-10 節)
みことばを食べる。その考え方は旧約聖書にあり、新約聖書の中にもあります。イエスは何も新しいことを教えていたのではなく、彼以前の預言者たちが言っていたこと、そして後に使徒たちが教えることを語っていました。「ことばは人となった。わたしのことばを食べなさい」信じることは“食べる”ことです。ローマ・カトリックの聖ベルナルドも同じことを言っています。
ことばは人となりました。神の本質であられた方がそのことばとなられたのです。
体は食べる物で出来ている
代謝的に体はあなたが食べる物で出来ています。イエスの本質である―ことば、教理、教えはイエスご自身です。
何かを食べるとそれがあなたの一部となります。それゆえ、霊的に食べるものはあなたを
形作っているのです。
地上にいる動物でユダヤ人が食べることを許されたもの(コシェル)はイエスご自身の象徴です。
子羊(羊)はコシェルでした。
『「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。』(ヨハネ 1 章 29 節)やぎもコシェルです。
『アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。』(レビ記 16 章 10 節)
雄牛もコシェルでした。
『それから、彼はイスラエル人の若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のいけにえをささげ、また、和解のいけにえとして雄牛を主にささげた。』(出エジプト 24 章 5節)
これらすべての動物が何らかの形でイエスを象徴しています。コシェルであるものを食べ、みことばを食べるのです。
誰か“コシェルでない人”がいるならその人から離れてください。なぜならあなたが彼らのことばを食べ始めるなら、病気になってしまうからです。健康によく、きよいものを食べてください。
しかし、人が空腹に耐えられなくなると―そして飢饉があるなら、人々はどんなものでも食べ、互いに食べあうようになります。
私たちはユダヤ人的な“肉を食べる”という考えを理解しなければなりません。
『この方 [メルキゼデク] について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。』(ヘブル 5 章 11 節)
著者はここで象徴とミドラッシュとについて語っています。メルキゼデク(創世記 14 章 18
節-20 節、詩篇 110 篇 4 節)はキリストの現れ(キリストが降誕以前に肉体をとったひとつの姿)であり、旧約聖書におけるイエスの象徴です。
著者は「私は象徴とミドラッシュを教えたいが、あなたがたはそれを理解することができなくなった」と言っているのです。
離乳食
『あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、
神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがた
は堅い食物 [肉] ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。』(ヘブル 5 章 12 節-14 節)
またここでは「私は肉を与えたい。メルキゼデクについての象徴を教えたいがそれは出来ない。まず離乳食のようなものから教えなくてはならない。もう肉はこれ以上与えられない。乳しか与えられない」と言っているのです。
初歩に戻る
『 [ギリシア語の原文ではここに章のくぎりはありません] ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。』(ヘブル 6 章 1 節-3 節)
現代私たちはみなこれと同じ状況にいます。私たちは初歩に戻り基礎的なことを教えなくてはなりません。人々は悔い改めや洗礼、永遠のさばきなどの基礎的な教理を見失っています。そして地獄のようなものは無いとまで言い始めているのです。
現在、教会は全体的に見て肉ではなく、乳を必要としています。この点において、乳は大 きな進歩だといえるでしょう。ヒンドゥー教徒たちは牛の尿を実際に飲むことがあります。彼らはそれが聖なるものだと思い込んでいるからです。また、霊的に同じものを飲んでい るカリスマ派の人たちがいるのを私は知っています。この場合、乳は大きな進歩だといえ るのです。
このようなことは嫌気がさすでしょうか。これは嫌気がさすべきものなのです。「これらはあなたがたにとって忌むべきものである」と書いてあるように、そのようなことを考えるのは、気分を害すべきことなのです。
わきまえの無い者は何でも食べる
『しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。』(ヘブル 5 章 14 節)
こう書かれているのは、みことばをどう適用するかを知っている人たちのことです。みこ
とばを見分ける知識を持ち、みことばを適用できる人たちのことです。人がみことばを実際の生活に適用するための知識を持っていなければ、物事を見分けることはできません。そして良い物と悪い物を見分けなければ、あなたはコシェルであろうとなかろうと、何でも食べてしまうのです。
『さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。…』(1 コリント 3 章 1節-3 節)
赤ちゃんがはまだ立つことができなくて、ハイハイを覚えだした頃を考えてみてください。ビー玉であれ、クレヨンであれ、エンピツの先端であれ―何であるかに関わらず、赤ちゃ んの頭の中では、それはお菓子であり、あめちゃんと同じなのです。
母親は子どもの口に入りそうな物なら何でも手の届かないところに置くでしょう。なぜなら、赤ちゃんは食べ物を見分けることができなくて、何でも食べてしまうからです。
これは正しい教理と義の教えによって訓練されていないクリスチャンにも言えることではないでしょうか。その人たちは何でも食べてしまうからです(空腹に耐えられなくなったときはなおさらです)。
乳を飲むことは大きな進歩になるでしょう。パウロは「彼らが乳を飲むようになったら、ステーキを食べに連れ出せるのに」と不満を漏らしているのです。
反芻する
反芻しない動物と、ひづめが分かれていない動物はコシェルではありません。
『ここのユダヤ人 [ベレヤの人たち] は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。』(使徒 17 章 11 節)
ベレヤの人たちは反芻していました。
反芻とは食べた物を吐き出すことではありません。それは食べた物をもう一度口まで持ってきて、そしゃくした後、飲み込み代謝に取り入れるということです。
現代の多くのクリスチャンたちはどのように反芻するかを忘れてしまいました。「ジェイ
コブ・プラッシュやデレク・プリンスがそう言うのだから正しいに違いない!」とんでもない!
パウロは彼の言ったことでさえ正しいかどうかを判断すべきだと言いました(ガラテヤ 1
章 8 節)。
イエスも『しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。』(マタイ 23 章 8 節)と言われました。
反芻してください。食べた物についてもう一度考え、祈り、みことばを調べた後で、もしそれが正しければ飲み込むのです。そうでなければ吐き出してください。
狼
『にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。』(マタイ 7 章 15 節)
狼はクリスチャンのまねをすることができます。彼らは羊のように見えますが、本当はに
せ預言者です。彼らの肉(その教え、教理)はコシェルではありません。食べてはいけないのです。それはあなたにとって忌むべきものです。
蛇
『おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。』(マタイ 23 章 33 節)
サタンは欺くものです。蛇は女、エバ―イスラエルと教会の象徴を誘惑しました。偽りの
教えをもってくる宗教指導者たちは蛇のような特徴を持っています。
イエスは彼らに悔い改めなければ地獄に行くと言われました。(イエスが言われた言葉はギリシア語の仮定法をもって記されています。これは英語では大して重要ではありませんが、ギリシア語においては重要であり、彼が言おうとしていたことは「あなたがたが地獄を免れる可能性はある。しかし地獄以外の場所に行く可能性は極めて低い」ということでした)
偽りの教えを持つ教師たちは蛇のように、正しい教えと間違った教えの間を左右に体をくねらせながらはっていきます。彼らはだます者であり、欺く者です。にせの教師は蛇の特徴を持っています。
そのようなものを食べてはいけません。霊的な誘惑に引き込もうとする人たちから身を引いてください。自分が蛇を食べている姿を想像できるでしょうか?まむしを食べますか?
そんなことはしないでしょう。それなら、まむしや彼らの教えから離れましょう。
蛇を食べることは気持ち悪いことではないでしょうか。この世での繁栄だけを約束する教師たちの教えを食べることも同じように、気持ちが悪くなるべきものなのです。
この世での繁栄だけを約束する教師たちが書いた本を、誰かが座って読んでいるのを見るとき、それはねずみをかじっているようなものなのです!同じようなことをしてしまっています。
それはあなたにとって忌むべきものであり、忌みきらうべことなのです。
これら不潔で害虫だらけの動物を食べようと考えることが、あなたを気持ち悪くさせることであり、偽りの教えに対しても、同じように気持ち悪く感じるべきことなのです。
はげたか
『死体のある所には、はげたかが集まります。』(マタイ 24 章 28 節)
はげたかは“からだ”を攻撃してきて、死体に群がります。食べてはいけません!はげたかは忌むべきものです。
あなたもそのように、死にかけている人たちを襲っている人たちを見ることがあるでしょう。その人たちは問題がある教会に入ってきて、奇跡を行う者だと自称し、教会を建て直すと宣言します。しかし、彼らのすることといえば、手や足を奪い去ることであり、それによって他の場所で自分のしたいことを実行しようとするのです。はげたかはコシェルではありません。それはあなたにとって忌むべきものです。
豚
『こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。』(マルコ 5 章 1 節-4 節)
超人的な力と超人的な知性は、しばしば悪霊につかれた人に見られる二つの特徴です。
聖書に記されている悪霊につかれた人たちのほとんどが―自分の身を火の中に投げたり、墓場に住み着くような理性を失った行いをします。もし、そのような正気でない行いが伴っていなければ、悪霊につかれているという可能性はほとんど除外することができます。
『それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、大声で叫んで言
った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。
神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け」と言われたからである。それで、「おまえの名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。』(マルコ 5 章 5 節-9 節)
信じられるでしょうか。オーストラリアで『エヴァンゲル』という雑誌の記事を書いた、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの代表は、悪霊につかれた男の名が(悪霊の名ではなく)
“レギオン”であると書いていました。
この“代表”は他の奉仕者を訓練すべき人ではないのでしょうか。彼らはどんなものでも食べてしまっています!
『そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。彼らはイエスに願って言った。「私たち を豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、 険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。』(マルコ 5 章
10 節-13 節)
豚はコシェルではありません。ガラリヤには異邦人(非ユダヤ人)と、おそらく律法を厳格に守っていないユダヤ人がいて豚を飼っていました。
ここに書かれていることを理解するために、私たちはミドラッシュを理解する必要があります。
『聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。』(マタイ 7 章 6 節)
豚とはどのような人たちでしょうか?それは福音をあざけり、拒む人たちです。その人たちには何が起こるのでしょうか?
『それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。』(マタイ 25 章 41 節)
『そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、に
せ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。』(黙示録 20 章 10 節)
マルコ 5 章において、ガラリヤ湖は炎の海の象徴となっています。黙示録では、福音をあざけり受け入れない者は悪魔と同じ所に行くと言われています。
甲殻類
魚介類を見てみましょう。ある海洋生物学者が私を南アフリカのケープタウンにある素晴らしい水族館へ連れて行ってくれました。そこにあったのは実際の南アフリカの大陸棚を再現した水槽でした。彼らはそこにサメなどの動物を入れ、ガラスで出来た通路を通るとサメが頭の上を泳いでいくのを見れるようにしていました。その水族館は本当に素晴らしいものでした。その人は私を案内してくれて、私は甲殻類を見ていました。甲殻類は海底にいる腐食動物であり、ごみを食べています。甲殻類はコシェルではありません。それを食べることは禁じられています。甲殻類は海底のごみを食べています――体は食べるものによって出来ていて――ごみを食べているとごみと同じようになってしまいます。
『イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」』(マタイ 4 章 19 節)
使徒たちはイエスが網を投げるように言われてから、網を投げ魚を獲りました。私たちは何度も何度も福音を証するかもしれませんが、イエスがどこに網を投げるべきかを言われるまで、大漁の魚を獲ることはありません。
それは個人的な福音伝道をやめるよう勧めているのではありません。しかし、私たちが伝道のプログラムや伝道集会を企画するときに、聖霊によって導かれていなければ、多くの魚を獲ることはできないのです。
甲殻類とはどのようなものなのでしょうか?
黙示録は“地”と“海”について語っています(黙示録 5 章 13 節、7 章 1・2・3 節、10 章
2・5・6・8 節、12 章 12 節、14 章 7 節)。
黙示録には二匹の獣が出てきて、ひとつは“海”から(黙示録 13 章 1 節)、もうひとつは
“地”から(黙示録 13 章 11 節)出てきたとあります。
地とはイスラエルのことで、海とは国々を表しています。『なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。』(詩篇 2 章 1 節)
貝は海深くにいて閉じており、網の中に入りません。貝は福音に対して心が閉じて、ごみ
でいっぱいになっている人のことを表しています。あなたが正しい物を食べていないなら、悪い物を食べているのです。甲殻類はごみを食べるので、彼ら自身もごみと同じになって
しまいます。そのような人は世のきまりの中に深く浸かっており、救われることがないの
です。福音に対して心を開いていません。これも食べてはならないものです。
種
もし、これらの汚れた動物が植えられる前の種の上に落ちたなら、その種(またそこからできる実)は食べることが出来ました。
『また、もしそれらのどの死体が、蒔こうとしている種の上に落ちても、それはきよい。』(レビ 11 章 37 節)
これはなぜなのでしょうか?
『まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』(ヨハネ 12 章 24 節)
『愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。』(1 コリント
15 章 36 節)
これは植物の異化作用と呼ばれるものです。種の内部には胚(芽)があります。種は地に落ちて死に、そこから新しい性質が生まれてくるのです。
これは私たちにとっても真実です。古い性質はキリストに植え付けられました。私たちはバプテスマによって彼とともに死に、彼とともに埋葬され、彼とともに復活するのです。最後に現される私たちの栄光を受けた体は、初めにあったものとは違ったものになるでしょう。
種が行うことと、古い性質が犯したこととは関係がありません。あなたが同性愛者や娼婦、麻薬の密売人、アルコール依存者、犯罪人であったとしても、古い性質が行ったことは今 何の関係もなく、それが地に落ちて死ねば、食物はきよいのです。
カメレオン
カメレオンもコシェルではありません。カメレオンとはどのような生き物なのでしょうか?ヘブライ語で“カメレオン”という言葉は“偽善者”という言葉と同じです。食べてはいけません!偽善者に注意しましょう。
牛にくつこをかけてはならない
『モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」と
書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。』(1 コリント
9 章 9 節-10 節)
ここでパウロが語っているのは、その奉仕に見合った金銭的な援助を受けるべき、誠実な説教者のことです。神のことばを宣べ伝え、教えることに心を砕き、正確に教えている者だけがそのためにお金を受ける特権を持っています。
『穀物をこなしている雄牛に、くつこを掛けてはいけない』雄牛はきよい動物です。その 教えに従うことができます。あなたは雄牛を食べることができるのです。しかし、豚、蛇、狼は食べてはいけません。
鳩
鳩はコシェルであり―イエスの象徴です。それは神がアブラハムにささげよと命じた 5 つ
の動物の中のひとつです(創世記 15 章 9 節)。
モーセの律法の中で、鳩は“湧き水の上で”ほふられなくてはなりませんでした(レビ記
14 章 5 節)。それは「みことばにより、水の洗いをもってきよめる」ことの象徴です(エ
ペソ 5 章 26 節)。
動物に耳を傾ける
きよい動物と汚れた動物がいました。動物学的にレビ記に記されているすべての動物が、実際にどのようなものであったかを知ることは出来ません。
あるものは絶滅し、またあるものは中近東固有の動物でなくなったのかもしれません。しかし、私たちが知ることができる動物―聖書の中に並行箇所を見つけられる動物は、私たちに霊的な食べ物に関してのことを教えています。
人は空腹に耐えられなくなると何でも食べます―それがねずみ、こうもり、とかげ、“神の国は今ここに”、エキュメニズム(世界教会統一主義)、“名を挙げて要求しなさい”というものや繁栄の信仰などであっても何でも食べてしまいます。「あなたにとってそれは忌むべきものである」聖書は繰り返しあなたに言い続けています。「あなたにとってそれは忌まわしいものである」
これらの霊的に汚れている食べ物はあなたを気持ち悪くさせるべきものです。それを考えただけでうんざりするので、頭の中から除き去らなければなりません。
ベニー・ヒンの教えを飲み込むことは、ねずみを食べるようなものです―それはあなたの
気持ちを悪くさせます。
「あなたにとってそれは忌むべきものである」モルモン書―それはあなたにとって忌むべきものです。ものみの塔―これもあなたにとって忌むべきものです。それは気持ち悪くさせるものだからです。それから離れてください。そのような教えを食べるなら、あなたもまた気持ちの悪いものとなり、神の目から汚れているものになってしまうのです。
かまの中の毒
『エリシャがギルガルに帰って来たとき、この地にききんがあった。預言者のとも がらが彼の前にすわっていたので、彼は若い者に命じた。「大きなかまを火にかけ、預言者のともがらのために、煮物を作りなさい。」』(2 列王記 4 章 38 節)
その地にききんがありました。食べる物が無くなっても、人は何かを食べなくてはなりません。
『彼らのひとりが食用の草を摘みに野に出て行くと、野生のつる草を見つけたので、そのつるから野生のうりを前掛けにいっぱい取って、帰って来た。そして、彼は煮 物のかまの中にそれを切り込んだ。彼らはそれが何であるか知らなかったからであ る。』(2 列王記 4 章 39 節)
人は空腹に耐えられなくなると、どんなものでも食べます。
『彼らはみなに食べさせようとして、これをよそった。みながその煮物を口にするや、叫んで言った。「神の人よ。かまの中に毒(原語では死という言葉です)が入っています。」彼らは食べることができなかった。』(2 列王記 4 章 40 節)
かまの中には死が入っていました。コシェルでない食物、腐った豚の肉や甲殻類を食べると旋毛中病やボツリヌス中毒にかかってポックリ逝ってしまう。その中には死があったのです。
そこでエリシャは何をしたのでしょうか?
『エリシャは言った。「では、麦粉 [穀物] を持って来なさい。」彼はそれをかまに投げ入れて言った。「これをよそって、この人たちに食べさせなさい。」その時にはもう、かまの中には悪い物はなくなっていた。』(2 列王記 4 章 41 節)
穀物(麦粉)をその中に入れたのです。穀物を食べる人は他の食べ物にあたらなくなりま
した。それによって偽りの教えや偽りの教理に影響を受けることはありません。彼らはエキュメニズムや“神の国は今ここに”、“名を挙げて要求しなさい”などのものにだまされないのです。
穀物が毒を除き去り、毒を吸収します。穀物がそれを無害の状態にします。真実の教えは偽りの教えを無効にします。
神がきよめたものを…
「それはあなたにとって忌むべきものである」ねずみ、蛇、害虫、それらは忌むべきものです。偽りの教えとそれを教える者、それは忌むべきものです。それらのメッセージを聞くことや、彼らの集まりに行ったり、彼らの本を読んだりすることは、ねずみをかじっているようなものなのです。あなたにとって忌むべきものです。しかし、人は空腹が耐えられなくなると何でも食べてしまいます!
この教えは何もうわごとを語っているのではありません。ペテロに起こったことを見てください。
『その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをす るために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。すると彼は非常に空腹を覚え、 食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢 ごこちになった。見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅を つるされて地上に降りて来た。その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。』(使徒 10 章 9 節-12 節)
ここで書かれているのはレビ記 11 章と申命記 14 章で出てくる動物です。それらの食べ物はコシェルではなく、ペテロにとって忌むべきものでした。
『そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」』(使徒 10 章 13 節-14 節)
言い換えるとペテロは「私はコシェルでないものを食べません」と言っていたのです。
『すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げ
られた。』(使徒 10 章 15 節-16 節)
『 [ペテロは] 彼らにこう言った。「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。』(使徒 10 章 28 節)
ここでの問題はその人自身と彼らの信仰であり、人種ではありませんでした。問題の本質はその人の信じていることにあったのです。
ペテロの時代のローマ人は他の神々を礼拝していました。彼らはジュピターやローマのパンテオン神殿にある神々を崇拝していたのです。
犬
『するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」』(マルコ 7 章 27 節)
犬とはどのようなものなのでしょうか?
『犬どもが私を取り囲み、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。』(詩篇 22 章 16 節)
“犬”とは異教徒たちのことを軽蔑的に呼ぶユダヤ人の言葉でした。『子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです』
イエスは人種差別をしてこう言ったのではありません。彼はその異邦人の少女を、ユダヤ人の少女と同じくらい愛していました。しかし、イエスが言っていたのは「女の人、あなたの宗教は人間が食べるものではない。わたしは“犬”にパンを与えることはしません。人間になりなさい」ということだったのです。
使徒の働き 10 章でのペテロの幻で、コシェルでない動物は何を表していたのでしょうか?それは異教徒や異邦人、不信者など“犬”を表していたのです。それがペテロの見たコシェルではない動物でした。
「ペテロよ、これを食べ、飲み込むのです」
「えっ、ちょっと待ってください。えっ、ちょっと待って…近くにコシェルの食堂があるのに。私はそれを触ることもできません!」
「ペテロよ、これを食べなさい!」
神はきよくない人たちをきよくします。
神はその異邦人たちを救い、彼らを食べられるものとしました。彼らの信仰が正しくされたので、もう彼らは消化されるものとなっていたのです。
神はどんな人でもきよくすることができます。それがたとえねずみやゴキブリを食べてしまっていたクリスチャンであっても、神は彼らをきよめます。その人が悔い改めたなら、彼らでさえきよくすることが出来るのです。
インドが飢えてもいいのですか?
私がまだ幼い頃ニューヨークにいたとき、インドに一年に必要とされるだけの雨量が不足し、インドは飢饉に陥りました。世界で第二に人口が多い国が大規模な飢餓に瀕していたのです。
そこで大きなキャンペーン活動がなされていました。「インドが飢えてもいいのですか?」というものです。世界の小麦生産国である―アルゼンチンやアメリカ、カナダ、オーストラリアなどが大量の小麦を援助していました。そして世界中の人たちが資金をそのために集めていました。
「インドが飢えてもいいのですか?」というキャンペーンは大きなもので、ビルの看板にも、新聞にも掲載され、テレビや雑誌で大きく取り上げられていました。「インドが飢えてもいいのですか?」と。
アメリカの中西部に住む農家たちは―多くの人が信者でしたが―自分たちの小麦の十分の一を、インドやさまざまなキリスト教の救済機関に送っていました。
当時、私には忘れられないことがありました。あるアメリカの雑誌が全ページをそのことについて書いていて、トップ記事の上の方を見ると、「インドが飢えてもいいのですか?」と書いてあり、同じページの下には「そうなって当然じゃないか」と書いてありました。 そしてそこには二人のヒンドゥー教徒の男の子たち、骨と皮ばかりになって、文字通り今にも飢えで死んでしまいそうな子たちの写真がありました。骨は体から浮き上がって見えていました。
その男の子たちは大きな穀物の入った袋を持ち、それには「合衆国緊急支援用小麦―非売品―アメリカ国民からインド国民への贈り物」と書かれてありました。
しかし、その男の子たちが袋を持っている間に、牛がその小麦を食べていたのです!
正義は国を高める
偽りの宗教はいつも飢饉と死をもたらします。そのような飢饉が起こっている国を見てく
ださい―ラテン・アメリカやアフリカ、アジアなど、異教やカトリック・偶像礼拝が広く行われている国々です。
私はクリスチャンが苦しみを受けることは無いと言っているのではありません。しかし、飢饉は偽りの宗教を反映しています―彼らは空腹になり、飢えのために死に至ろうとしながらも、食べる物が目の前にあるのです。
聖書は『この地にききんを送る。…実に、主のことばを聞くことのききんである。』(アモス 8 章 11 節)と書いています。飢饉はもうすでにあります。しかし、それはひどくなりつつあるのです。
ではサウジアラビアやイランなどのように聖書が手に入らなかったり、信者の集会が違法になってしまうような迫害が来たらどうなってしまうのでしょうか。
それがイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどの国にやって来たら、そこにいる信者たちはどうなってしまうことでしょう。
食べる物は至る所にありますが、人々は食べようとしません。それなら食べ物が無くなってしまったときにどうするのでしょうか。どのような人たちが最初にいのちを失ってしまうのでしょう。
食べ物が目の前にあるのに、食べようとしない人たちが最初にいのちを落とします。
インドでヒンドゥー教徒の男の子たちが飢えていたのは、悲惨なことです。しかし本当に悲惨なのは、彼らが飢えていたことではなく、目の前に食べ物がありながら飢えていたということです。
今日の教会の中で起こっている飢饉において、人々は手当たり次第に物を食べています―文字通りどんなものをも食べています。それがいくら狂ったものでも、吐き気を覚えるようなものでも、どんなに毒が入っていても食べてしまっています。これは悲劇です。
しかし、それにもまして悲しむべきことは、貯蔵庫にまだ大量の穀物が残っていることなのです!
ジェイコブ・プラッシュ