第二章: 日本の仏教: 極東における大乗仏教(2013 年 7 月 25 日)
日本は天然資源が限られているにも拘わらず、印象的な発明、独特の文化、それに見事に効率的な生活様式を備えた驚くべき国である。時速 320 キロで走行する新幹線に乗ったり、生魚を(安全に)食べたり、雪が降って猿たちが温泉に入って“ノンビリ寛いでいる”のが話題になったり、500 年もの歳月を経た古城の前で春の花見
(桜)を楽しんだり、大相撲の勝負を観戦したり、忍者、侍、空手、カラオケ、カワサキ、ヤマハ、キャノン、トヨタ、折り紙、寿司…といった言葉の発祥の国にいられる、こんなことを一体、他のどこの国で経験することが出来ようか?日出ずる国としても知られる日本には、非常に興味深い歴史がある。その歴史の多くは様々な宗教上の信念によって形成され、影響を受けてきた。
この章では、まず日本仏教の歴史的概要を説明し、次に今日で最もポピュラーな形態(その殆どが大乗仏教のカテゴリーに分類される)に焦点を当ててみたい。日本における様々な仏教勢力の知名度分布を示すものとして、付録 A の人口を参照して頂きたい。日本の仏教を見ていくと、幾つかのテーマが浮かび上がってくる:法華経(経は仏教典)の知名度、先祖崇拝、読経と数珠の使用、汎神(多神)論、神道(日本における仏教以前の宗教で、時には仏教と混合されることもある)、阿弥陀や観音菩薩、大日如来などの救済仏、それに歴史的に検証できる真実と対立する神秘的啓示の人気などである。もちろん日本仏教の様々な宗派には、上記テーマについて強調したり否定したりする差異があり、時には互いに全く反対の教義を説くこともある。この研究論文の目的は、人工的なシステムとは対照的に、聖書の確かな基盤を示すことにある。日本仏教のシステム自体は興味深いものではあるが、この
世の全ての人が必要とする天国へ導いてくれる究極の救いとなる力を持たない。
日本仏教の大部分が中国からの経典に依存していたため、中国仏教に見られるスンニャター(空)哲学はまた、日本仏教の基盤にもなった。これは例えば、空を指し示す禅の“ゼロ”芸術に見ることができる。サンスクリット語の“スンニャター”は日本語では空(ローマ字ではKū)と表記され、英語では“虚空”とも呼ばれ表記されている。日本仏教の様々な宗派に大きな影響を与えた法華経もまた、空の教義を強調している。8 世紀から 9 世紀に日本仏教・真言宗の開祖は、日本語で空(ku)を意味する中国語の漢字を用いて、自分の名前“空海”の表記によって空の哲学を披露している。
仏教に関連する日本史の時代
古墳時代(西暦 250 年~538 年) |
織豊時代(西暦 1568 年~1603 年) |
飛鳥時代(西暦 538 年~710 年) |
江戸時代(西暦 1603 年~1868 年) |
奈良時代(西暦 710 年~794 年) |
明治時代(西暦 1868 年~1912 年) |
平安時代(西暦 794 年~1185 年) |
大正時代(西暦 1912 年~1926 年) |
鎌倉時代(西暦 1185 年~1333 年) |
昭和時代(西暦 1926 年~1989 年) |
足利時代(西暦 1333 年~1568 年) |
平成時代(西暦 1989 年~2019 年) |
令和時代(西暦 2019 年~現在)
古墳時代(西暦 250 年~538 年): 基盤この初めの時代は、その当時に造られていた大きな埋葬塚“古墳”に因んで名付けられた。日本の伝説によると日本国家の始まりは紀元前 660 年とされているが、現代の歴史家は日本国家の始まりを古墳時代に置く:「…現代の歴史家は、3 世紀後半から 4 世紀前半にかけて大和地方に政治勢力の中心地が築かれたと控えめな表現で記述をしている。彼らは日本国家の始まりを紀元前660 年とするのは約 1 千年も早いと見なしている」(メーソン & ケイガー,25)。
「仏教以前の日本の宗教は、カリスマ的な力を持つ存在(精霊、人物、動物)、物、場所などの神の崇拝を中心としていた。このカリスマ性は宗教的な側面だけでなく、
政治的および審美的側面も持っていると認識されていた」(ロビンソン,241)。 後に、この仏教以前の日本の宗教は神道として知られるようになった。「このアミニズム的宗教と呼ばれる神道には、創造主も聖書も存在しない」
(メーソン&ケイガー,33)。
「日本の初代天皇は紀元前 660 年に即位していないが、日本の皇室制度は今なお、世界最古の世襲制度である」(メーソン& ケイガー,32)。「現在の天皇がその子孫である大和朝廷一族の首長は、太陽の女神(天照大御神)の直系子孫だと主張した
…」(メーソン& ケイガー,32)。「1946 年、天皇は自らの神性を公式に否定し、 1947年、伝統的な戸籍制度が解体され、もはや個人はその家族の宗教に束縛されることはなくなった」(ロビンソン,264)。
「…神々は無数に存在し、本質的に非道徳的であり、神々の間に確立された秩序はなかった…。この様に、日本という国を統一する為の主要な課題の一つは、神々の間の階層を説明する為のしっかりした一連の物語を確立し、様々な氏族が同様に、一つの階級制度に組み込まれるようにすることであった。これらの物語の真実性は
戦場で試され、勢力バランスが崩れると関連する物語は改作に反映された」
(ロビンソン,242)。
仏教の主張は、“…不確実な物語よりも普遍的な原理”に基づいているというものであった(ロビンソン,242)。仏教もまた不確かな物語に助けを求めており、結局の
ところ、その原理の基盤が不確かなものであることは本論文で後述する。
飛鳥時代(西暦 538 年~710 年): 逡巡
「仏教が日本にもたらされたのは、恐らく朝鮮半島からの移民が最初であろう…し
かし、皇室レベルでの最初の接触は 552 年に記録されている」(ロビンン,243)百済(当時の朝鮮における三大国の一つ)の聖明王は仏像と経典を添えて仏教が
「究極的には最高の知恵に繋がり、あらゆる祈りが成就される」と伝え、敵に対する軍事支援を日本の天皇に要請した(ソーンダース,92)。10 年後の 562 年、日本に仏教を紹介したこの朝鮮の王は、「…ついには殺害され、彼の国は新羅に滅ぼされてしまった…」(ソーンダース,92)。
一方、日本国内ではこの新しい宗教に対して多くの人が疑惑の目を向けた。中臣氏と物部氏は新興宗教に反対したが、蘇我氏はこれに賛成し受け入れ、一族の家を寺院に建て替えて朝鮮からの仏像を安置した。しかしながら、やがて疫病が発生し、その仏像がこの原因だと非難の声が上がった。中臣氏と物部氏は、「…寺院を焼き払い、その仏像を運河に投げ入れた」(ソーンダース,93)。 数年後に別の仏像が安置され、また疫病が発生した。この度も仏像は川に投げ込まれたが、それでも
疫病は治まらなかったようで、それで仏像は川から引き上げられ元に戻された。
物部氏は「…我らは美しい“天岩舟”に乗って天から舞い降りた神(神道の神)の子孫である」と、主張した(メーソン & ケイガー,39)。 朝鮮半島からの渡来人の子孫である蘇我氏は、587 年に物部氏を軍事的に破り、仏教がより大きな影響力を持つようになった。
「後に日本仏教の開祖とされる聖徳太子(573 年~622 年)は…朝鮮の職人を輸入して寺院を建立させ…彼らの為に朝鮮人僧侶と尼僧を派遣させた」(ロビンソン,244)。
聖徳太子も蘇我氏の一員であり朝鮮半島からの渡来人の子孫である。聖徳太子は
『法華経』の解説書も書き下ろし、それは日本で非常に著名な経典となった。
「仏教経典は全て中国語で書かれていたため、日本は朝鮮の仲介を通すよりも中国
との接触を直接した方が良いのではないかと考えるようになった」(同上)。
奈良時代(西暦 710 年~794 年): 実験
710 年に飛鳥から奈良へ遷都がなされた。奈良時代には仏教の六宗派 ━ 俱舎(くしゃ)、成実(じょうじつ)、三論(さんろん)、法相(ほっそ)、華厳(けごん)、律(りつ)━が存在した。「俱舎、成実、三論は教義を学ぶカリキュラム科目の域を出るものではなかった…」(ロビンソン,245)。現代に至るまで活発な支持を得て存続しているのは法相宗、華厳宗、そして律宗のみであり、これらを合わせても日本人口の約半分を占めているに過ぎない。以下、現存する三宗派の信仰について概要を説明しよう:
⒈ 法相宗(ほっそしゅう)
「法相の教えでは、あらゆる物事には実体がなく、我々の心にそのイメージを投影または反映することによって存在する…」(ソーンダース,121)。「…法相宗は、
あらゆる存在の内部に仏性があることを認識してない」(ソーンダース,123)。
⒉ 華厳宗(けごんしゅう)
「華厳宗の世界観は、宇宙の太陽仏である大日如来と、太陽の子孫だと主張する氏(uji うじ:部族や氏族)である天皇とを同一視することによって、政治的イデオロギーに適合させた」(ロビンソン,245)。「…奈良時代に栄えた華厳宗は、全ての現象は根本的に一つで重なりあい、相互に交換可能であると説いた」(メーソン&ケイガー,239)。「華厳宗の基礎となっている『華厳経』もまた、本質的に禅と密接に結び付いている。それらは宇宙の様々な側面が完全に相互依存の関係にあるという一種の宇宙神論を説いている…しかも、仏性はあらゆる物の中にあり、一粒の塵のかけらにも人間の内部と同じくらいある」(ソーンダース,204~205)。日本仏教の多くの宗派は、仏性に関する法相宗と華厳宗の信仰に見られるように、互いに相手を打ち消し合っている。
⒊律宗(りっしゅう)
「中国の“Lu(呂)” あるいは“ヴィヤナ(律)”に因んで名付けられた律宗は、ヴィヤナ・ピタカ(律蔵:僧侶の規律や道徳や生活様相などの法典)の解釈に携わっていた。…この宗派はまた、日本で僧侶に聖職位を授ける(叙階)の儀式を担当して
いた」(Noriyoshi,163)。
平安時代(西暦 794 年~1185 年): 融合
784 年、帝都は奈良から長岡へ、794 年には平安(現在の京都)へと遷都がなされ、少なくとも名目上は 1868 年までここに留まった」(ソーンダース,134)。この時代には、2つの新しい仏教宗派が出現した:天台宗と真言宗である。「…天台宗と真言宗の両者とも、神道の神々が実は偉大な宇宙仏の応化身(応現した身体)であると主張した」(ロビンソン,246)。「…天台宗、真言宗の両者とも、再生(カルマ)、修
行(禁欲生活)、自己努力という上座部仏教の基本概念を保持していた」
(メーソン&ケイガー,100~101)。
⒈ 天台宗
最澄(さいちょう)(767 年~822 年)は中国へ渡り様々な宗派で学んだ後、天台宗を創始した。比叡山に総本山を置いた。「比叡山は日本の主要な僧院の中心地となり、16 世紀末に破壊されるまで存続した。最盛期には 3 万人の僧を抱え、3 千以上の建物があった…。寄進されたその莫大な富を盗賊から守るため、僧侶の一部を武装させる必要があった。これらの武装した僧侶は派閥を形成し、後に総本山住職の地位継承を巡る争いに巻き込まれていった」(ロビンソン,247)。「…次世代の主要な改革僧侶たち ━栄西(えいさい)、道元(どうげん)、法然(ほうねん)、親鸞(しんらん)、日蓮(にちれん)━ らは総じて、初期の僧侶としての修行キャリアを比叡山で過ごしたが、そこで目撃した腐敗が彼らの寺院改革への大きな動機づけとなった、とされている…」(ロビンソン,248)。「天台宗では、生きとし生ける存在の最終的な救いへの信仰があった…人間だけでなく全ての生命は基本的に同じであり ; それは存在の根本的な統合という概念である…。この教えは大乗仏教の重要な経典のひとつである法華経に基づいている。法華経は、ゴータマ(仏陀)が涅槃に入る直前に説いた最後の説法であるとされている。
実際には、ゴータマが入滅してから長い時間をかけて編纂されたものなのだが…」(メーソン&ケイガー,102)。先ほどの上記 5 名の改革僧侶たちは、いずれもある程度は『法華経』の影響を受けていた。
「最澄は天台教義を固持し、普遍的な救済、すなわち全ての衆生に仏性の絶対性が存在することを認める帝釈天の教義を信奉していた」(Michio,270)。 2004 年に、天台宗は日本人口の 2.7% を占める信徒を擁していることを明らかにした。「天台
宗は太陽の汎仏である大日如来をダルマカヤ(仏教における根本真理)の実現者として認識している…」(ソーンダース,144~145)。
⒉ 真言宗
真言宗の開祖、空海(774 年~835 年)もまた、中国に留学して学んだ。日本には高さが16~21mに及ぶ彼の像が4体ある。「空海は般若(カシミール地方の僧)から経典と数珠を授かったとされており、日本の空海像ではその数珠を持っている姿がよく描かれている」(ソーンダース,154)。祈りに際して数珠を用いるのは、キリスト教よりも何百年も前にヒンドゥー教で執り行われていた慣習である。
「真言宗創始者である彼は、日本語の読み書きを大幅に簡略化する五十音節文字表を考案した」(ロビンソン,248)。「真言宗では、全宇宙とは中心的な太陽神、大日如来の顕現・放射であるとする一種の汎神論を展開した」 (ソーンダース,
161)。 「大日如来の明白な太陽神としての性質(太陽神像)は、いとも容易にこれを日本土着の太陽女神・天照大御神(神道との二重システム)に結びつけることができた…。」(ソーンダース,168)
「真言宗はチベット仏教やタントラ仏教(密教)の影響を強く受け混合した大乗仏教であり、儀礼的な話術や神々との神秘的な結合などが強調されている」(メーソン&ケイガー,105)。真言宗の経典は、「…ヒンドゥー教の影響を強く受けたパンテオンを含み、純粋な仏教ではない多数の神々を含んでいる」とされる。(ソーンダース,161) 真言宗の修業では、弟子は「…大日如来 が教えるムドラー(神聖な印相ゼスチャー)とマントラ(神聖な御言葉や呪文)を介して身体と言葉を調和させよ。そうすれば、高尚で色彩豊かな曼荼羅(聖画)の視覚化とともに、これらの身体的発現に自分の心を傾けることによって完全な調和に達することが出来るであろう…」(ロビンソン,248~249)。これらの修業の到達すべきゴールは実際に大日如来となることであり、これは真言宗の汎神論と合致する。「真言宗は精神統一を旨とするヨガ行のタントラ聖典に基づき…大日如来(偉大な太陽)の身体、話法、心
を模倣し、その偉大な存在との同一性を仮定する修行を積むことである」
(ロビンソン,248)。
紀元前 590 年頃、預言者エゼキエルはイスラエルの神殿がバビロンによって破壊される前に預言をして、イスラエル民族の神への不誠実さを書き記した。彼らは太陽を崇拝した。【彼はまたわたしを連れて、主の宮の内庭にはいった。見よ、主の宮の本堂入口に、廊と祭壇との間に二十五人ばかりの人がおり、主の宮にその背中を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた。時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、あなたはこれを見たか。ユダの家にとって、彼らがここでしているこれらの憎むべきわざは軽いささいなことであるか。彼らはこの地を暴虐で満たし、さらにわたしを怒らせる。見よ、彼らはその鼻に木の枝を置く。」】『 エゼキエル書 8 章 16 節~17 節(口語訳)』“枝を鼻のところへ”持ってくるという表現は、現代でもまだ使われているが、これは多分、崇めまつる動作の中でかぐわしい香りのする棒(線香)を立てて捧げる姿勢を意味している。創造主である神にくるりと背を向け、神の被造物を拝むという忌まわしい行為をしたのである。
真言宗の汎神論な思想は美術にも反映されている。「真言宗では真理(=宇宙仏)とは、人生の好ましい側面だけでなく不愉快で不気味な側面も含まれると考えていた」(メーソン&ケイガー,115)。また、大日如来の不気味な側面と関連して、
「…智慧の王(明王)と呼ばれる第二群の神々グループ ━不動(サンスクリット語
で Achala) ━シヴァ神の姿をした不動明王 ━ 剣と綱を手にした姿で描かれることが多い;彼は剣でこの世の悪魔を切り倒し、綱でそれらを縛る…2つの牙を突き出した恐ろしい形相をしており、その背後には炎が燃え上がっている」
(ソーンダース,176)。不動が由来するヒンドゥー教では、シヴァ神は破壊者である。「今日、明王は主に真言宗で崇拝されている…。実際、明王は明らかに大日如来の姿をしており、悪と無知に対するその怒りを表している」(http://www.onmarkproductions.com/html/fudo.html)。汎神論では、人生の悪の側面さえも“神”の一部である。倶(く)利(り)伽羅(から)の呪文経典では、「不動は直立した剣に巻き付き炎を纏った蛇や竜の姿をしている」
(http://www.onmarkproductions.com/html/dragon.shtml)。
真言宗は今日も日本の多くの人々に支持されている。不動明王は蛇や竜に変身することができ、破壊者シヴァ神に由来し、大日如来の顕現であるとされている。聖書では、この蛇や竜のような存在が誰であるかを明確に宣言している。「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経た蛇は、地に投げ落され、その使いたちも、もろともに投げ落された。」『 ヨハネの
黙示録 12 章 9 節(口語訳)』※聖書の御言葉…最終章に至るまで口語訳を引用
2004 年、日本人口の約 9.9%が真言宗信徒であると考えられている。
鎌倉時代(西暦 1185 年~1333 年): 改革
1185 年、天皇は権力を奪われ、将軍の権威が台頭して新しい政治体制が誕生した。
帝都は依然として京都に置かれ、天皇はその称号を保持することを許されていたが、政治の中心は将軍が住む鎌倉へと移された。この時代、京都近郊の比叡山には天台宗から袂を分かち日本仏教の改革者となった 5 人の傑出した僧侶たち、即ち、栄西、道元、法然、親鸞、そして日蓮がいた。
⒈栄西と道元:禅宗
2004 年では、禅宗信徒が日本人口の 2.6 パーセントを占めるとされていた。これはかなり低い数字だが、国際的には禅は恐らく日本仏教の最もよく知られた宗派である。「明庵(みょうあん)栄西(1141~1215)は 1202 年、京都に最初の禅寺(中国語ではチャン寺)を建立した…栄西の禅の折衷主義に対する不満を抱き、次世代の多くの僧侶たちが、より不純な要素の少ない教義を日本へ持ち帰ろうと自ら中国へ渡航した。それを実行した第一号が道元希玄(1200~1253)である…《禅とは、本質的に“思考を脱-思考すること”である》と、道元は言っている。考えを止めることは、どのような手段で考えられるのか?“超-思考”である」(ロビンソン,251)。変成意識状態禅は、悟りに至る道として瞑想に焦点を当てている。禅という言葉はパーリ語の “jhana(ジャーナ)”とサンスクリット語の“dhyana(ディヤーナ)”に由来してい
る。「4つのディヤーナ(瞑想には4段階ある) はエンスタシー(法悦)の度合いが増していくことを特徴とする一連の変成意識状態として理解するのが最も適切である。エンスタシーという言葉は、文字通り“内に立つ”という意味である。つまりエンスタティックな修業とは、修行者の感覚と思考を外界との接触から引き離し、その意識の中身を軽減することを目的とするものである」(グリフィス,38)。「道元の思想と初期の仏教思想との間には、強い類似性を見ることができる:脱-思考という内部思考は、視界を超越した正しい見解を用いて見解を超えていく、正しい観察方法につながる…。道元は曹洞宗の開祖として認められた」
(ロビンソン,252)。
上座部仏教に受け継がれている初期仏教は、瞑想の目的や手法の一部が禅と類似している:「ジャーナと は…瞑想のテーマ以外の全ての感覚入力が意識から完全に排除される法悦状態を意味する。より高い禅のレベルに至ると、瞑想者は言葉を発することも動くことも出来なくなる…。パーリ聖典によれば、ゴータマ(仏陀)は、彼が選んだ(特定されていない)瞑想テーマに集中して注意を向けることで得られ
る4つの古典的なジャーナによって、悟りの境地に達した」(キング,88)。
言語や論理を超えて日本ではダルマ(達磨大師)の名で知られるボーディダルマ(菩提達磨 470~534)は、中国における禅の開祖と言われている。「ボーディダルマの教えは、伝統的に仏陀の教えにまで遡る。仏陀は説法中に花を手に掲げて微笑んだことがある。カシュヤパだけが、仏陀が自分の教義の真髄を表現する為の言葉の不十分さを象徴することを意図したのだと理解していた。これこそ、ボーディダルマが中国へもたらした“無言行の伝統”であり、それ以後、空域の支配者(絶対者である神)を直観的に理解する伝達方法となった」(ソーンダース,208)。952 年に編集された『祖師堂集』によると、ボーディダルマは壁に向き合い 9 年間、いっさい言葉を発しなかったとされている。これが伝説かどうかは別として、無言の哲学思想に通じるものが
ある。この合理的思考に異議を唱える傾向は、現代の禅にも続いている。
「禅は、誰も実際に自分で考えて悟りの境地に達することはできないし、ましてや他人との論理的な議論に依存することは出来ないとしている。合理性は最終的に直観的な洞察に道を譲らなければならず、それだけが人を自然で自発的に生きられるよう解放する…」(メーソン&ケイガー,169)。この種の倫理や宗教に対するアプローチは現実の世界とはマッチしない。もし教師が生徒に対してテストの点数や合理的な要素を度外視して“直観的に”成績をつけたとすれば、生徒から「それは不公平だ」と言う抗議の声が上がってくるだろう。もし医者が“直観的”そして“自発的” に 薬を処方すれば、患者は死んでしまうだろう。テストの点数など合理的な要素もそうだが、経済的な判断、運転上の判断、倫理的な判断…etc.などに適用された場合、同様のカオス状態が惹き起こされるであろう。“見解を超える”“思考を超える” という“悟りの境地”は、明らかに真理を抑圧している。合理的な思考の自由の代わりに経験が過度に強調され、その結果、真理から遠去かることになる。我々が日常生活で用いる合理性は、霊的な真理を理解する際にも適用できる。
公案(修行者が悟りを開くための課題として与えられる禅の問題または問答)とは禅における合理性に“打ち克つ”一つの方法であり、例えば「片手で拍手する音は何ですか?」といった問いかけを瞑想するようなものだ。公案に加えて、時には“衝撃の雄叫び”(気合)も用いられる。「公案とは、いわば未整理のテーマであり、しばしば非論理的に知性を混乱させ、直観に訴えて理解させることである。《喝!!》を入れるが如く、それらは抑制的な知的プロセスを回避しながら、直接的な直観理解力を確立する為のものである」(ソーンダース,212)。「…可能な限りあらゆる角度からこのような質問(公案)を投げかける目的は、決定的な解答を求めることではなく、“既成概念を超えた”ダイナミックさに益々もって精通しようとするところにある…」(ロビンソン,252)。ある宗派で用いられた思考を超える他の方法は(現在も同様)、棒でビシッと叩くことである:「…棒は大声で喝を入れるが如く、━体罰的に肉体を通じて━ 思考を担う心をビクッと刺激して悟りに至らせるべく用いられたものである」(ソーンダース,213)。より長い公案の一例として、中国のある僧院においての事例がある。「南泉普願
(F.Nansen,748~795)の僧院の北堂と南堂の僧侶たちは、一匹の子猫を巡って激しく論争を繰り広げていた。南泉普願はその猫を捕まえ、論争している僧侶たちの前でそれを持ち上げて、「お前たちの中に、なぜ私がこの子猫を殺してはいけないのか言い当てる者がいれば、その命を助けてやろう」と言った。僧侶の誰も口を利かなかったので、南泉普願は子猫を地面に叩きつけて殺してしまった。一日の外出から帰って来た趙州従(J.Joshu,778~891)という僧が南泉普願に迎えられ、「もしお前がそこに居合わせたら何と答えたか」と問われた。この時、趙州従は草履(藁のサンダル)を脱いで頭の上に乗せ、南泉普願の前から立ち去った。そこで南泉普願はこう言った、「もしお前がそこに居合わせたなら、猫は助かったであろう」。趙州従の行為は肯定でも否定でもなかった。言い換えれば、いかなる問題に対しても唯一の解答は空(欠如)であることを表現し、問題の不存在を指摘することで、決して語られることのない無言の救いの言葉を構成していた。
(ソーンダース,212~213)。
「現在、禅宗の僧院で般若心経(ナーガ蛇がインド仏教の僧ナーガールジュナに与えたとされるもの)が学ばれており、万物の究極の空虚の概念は禅の思想に影響を与え続けている」(ソーンダース,204)。この様に社会に対して否定的な哲学理念が多く存在する。趙州従が子猫について無関心だった反応は、古典的な仏教の“無心” と、大乗仏教の“万物の空虚”(サンスクリット語でスンニャター)の教義を組み合わせたものである。この“究極の空虚”は、万物の中に仏性があるとする信仰(華厳宗の宇宙即神論参照)と対照的である。ただ、これまで見てきたように、禅では理路整然とした一貫性が優先されることはない。
禅の人気作家である鈴木大拙(だいせつ)は、「禅は一神論でも汎神論でもなく、禅は一切その様な呼称を許さない…そうした概念の規定を全て拒む。だから禅は理解するのが難しいのだ」と、書いている(鈴木,41~42)。そして鈴木は、禅とは何
かを“定義”する為に、密雲円悟(みつうんえんご)(1566~1642)を引用している:「禅の偉大な真理とは、誰もが禅を持っているということだ。自分自身の存在を見据えて、他人を通して探究するのではなく…その光の中で全てが吸収される。主客の二元論を黙らせ、双方を忘れ、知性を超越し、理解から自分を切り離し、直接、仏心のアイデンティティに深く入り込みなさい。これ以外に現実はない…」(鈴木,46)。鈴木は、禅が拒んでいるとする円悟の概念メイキングや呼称を引用することで、自分自身に矛盾を生じさせているのである。また、この引用では「禅の光の中に於いてすべてが吸収される」という汎神論的な記述も見られる。禅の信徒は“知性を超越”するよう求められ、論理や常識を置き去りにする非常に危険な場所に連れて行かれる。
上記の子猫の公案で、それがもし人間の赤ん坊だったら、やはり無関心な態度のまま頭に草履(藁のサンダル)を乗せただろうか?キーオンは 1996 年に出版した著書の中で述べている:「日本では…妊娠中絶が合法であり、毎年 100 万件もの中絶が行われている。これを数字で比較すれば、人口が日本の 2 倍以上の国であるアメリカの 150 万人に匹敵する」(キーオン,102)。アメリカという国もまた、すっかり神や胎内の赤ん坊に示すべき慈悲から遠く離れてしまっている。無関心に傍観する態度が、ある事は実に悪であり、ある事は実に善であるという問題を引き起こす。もし人々が無関心で孤立した人生を歩むなら(皮肉なことに無関心の見方に執着しているが)、この人生にかけられるフィルター(運命に対する平静の中庸とも呼ばれている)は、究極の善である神を見逃し、明らかに悪であるものを避けられないようにしてしまう。
⒉法然と親鸞: 浄土真宗これは現在、日本国内で最も人気のある仏教である。2004 年の時点で日本国民のおよそ 15.3% が浄土真宗の信徒だと自認している。「阿弥陀仏(浄土真宗)は他力、すなわち阿弥陀仏を通しての救済を強調するが、禅は自己の内なる救済を強調する。全ての人間は仏性を持っており、この仏性は“自己の実現”を通して認識できる」(ソーンダース,228)。「天台宗と真言宗における阿弥陀仏の存在は、密教の神としての存在を証明するものである。従って、他の密教の神々と同様に、阿弥陀仏は瞑想の対象であった…。ただ阿弥陀仏の名(念仏)を唱えるだけでは十分ではなかった…」(ソーンダース,189)。法然と親鸞からの影響を受けて、この天台宗と真言宗が強調したこと(禅のように多くの自己努力を伴う)は変遷を遂げた。
法然(1133~1212)は浄土宗を創始した。これは、人が死んだら阿弥陀仏の助けを借りて浄土に往生できるという考えに基づいている。「カリスマ的なリーダーであった彼は、1日に 7 万回も念仏を唱えるよう説教し、それを自ら実践することで、社会のあらゆる階層から門弟を引き寄せた」(ロビンソン,254)。親鸞(1173~
1212)は法然の弟子であった。「彼は法然に師事するよう観音菩薩によって夢の中で導かれ、1201 年に弟子入りして学び始めた」(ソーンダース,198)。親鸞は、その後に劇的な構想を得て、最終的に真宗(浄土真宗として知られる)を創設するに至った。
「比叡山で 20 年の歳月を独身禁欲の制約に苦しんだのち、親鸞は夢の中で観世音
(日本では観音菩薩)が現れ、将来に結婚する若い女性の姿となって現れることを約束する」という啓示を受けた(ロビンソン,254)。親鸞は結婚し、それから更に「…阿弥陀仏の救いは唯一、念仏(仏の名前)を唱えればよい」という啓示を受けた(ロビンソン,254)。「親鸞の教義は法然のものと同様に、様々な乱用や誤解を招きやすいものであった。親鸞の実子である善鸞(ぜんらん)は、罪へのあからさまな誘引となるような煽情的な教えを説いた。親鸞は最終的に息子との一切の関係を断ち切らなければならなかった」(ロビンソン,255)。
「法然は、念仏を唱える繰り返しの回数が多ければ多いほど、浄土に往生できる可能性が高くなると考えていた」(メーソン&ケイガー,164)。長年にわたって「阿弥陀仏を 1 回唱えるだけで十分なのか、それとも繰り返し唱える必要があるのか」という論争がなされた。今日でもこの二つの宗派は現存しているが、真宗(1 回唱える)の方がより人気がある。「中国、韓国、それにベトナムでは、阿弥陀仏への帰依と乾坤(けんこん:韓国では Son、ベトナムでは Thien)瞑想とが組み合わされ
たものが定着し、一方、日本では浄土宗と禅宗の別々の系統に分かれた」
(コーレス,263)。
中国の道綽(どうしゃく)禅師(562~645)は、「…ロザリオを浄土真宗の修行に導入し、一般の信徒と僧侶が共に数珠の刻み目を利用して記録的な[念仏]の回数を唱えたとされている」(コーレス,253)。これとは対照的なイエスの御言葉がある
「また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている 」
『マタイによる福音書6章7節(口語訳)』。親鸞は阿弥陀仏を第一に信仰していたが、観音(日本で最も高く聳え立ち像の数も最多)にも敬意を払っていた。浄土真宗の経典に描かれた阿弥陀三尊画には「阿弥陀仏の両側に彼の慈悲と智慧を表す化身菩薩である大いに慈悲深い観音と大いに力強い勢至(せいし)が居る…」(コーレス,253)。しかしながら、これら二尊(阿弥陀仏と観音)はどちらもキリスト以後に現われている。しかも、彼らは歴史上では実在していない聖人伝の創作である。
「法然が瞑想と功徳を削ぎ落し、信仰と念仏だけを残したのに対し、親鸞はさらに削ぎ落し、他力への信仰だけを残し、自力信仰を全く残さなかった」(ロビンソン,255)。タイの有名な仏教学者ポー・オー・ パユットーは、「仏教がどこに広がろうと、或いは教えがどれほど歪められようと、人間の努力に対するこの強調点は決して変わることはない。この 1 つの原則が失われたなら、それはもはや仏教ではないと自信を持って断言する」と、述べている(38)。パユットーによれば、浄土真宗は仏教と呼ぶべきではない。それは自己努力を強く求める態度が全く欠けているからである。
たった一人の救い主一見したところ、阿弥陀仏はキリスト教における神の役割 ━ つまり善行ではなく、恵みによって救いをもたらすという役割を果たしているようである。しかし、全能の神と阿弥陀仏との間には幾つかの大きな相違点がある。:「阿弥陀仏は…宇宙全体から見れば唯一無二の特別な存在ではなく、多くの仏のうちの一尊でしかない… 彼は宇宙全体を創造したり、維持したり、破壊しているわけでもなく、宇宙全体を存在論的に支えているわけでもなく…宇宙全体のために…存在論的に“いと高き御力”として崇拝者たちの上に立つわけでもない…仏ではない時代があったのだから彼の人生は無限というものではない」(コーレス,247~248)。
浄土教の教義に変更を加えたのは法然と親鸞だけではなかった。「瞑想ではなく読誦であること、そして阿弥陀仏の誓願から利益を得ることが出来る者に罪人を含めること…この2点が、インドの阿弥陀教義からの主な中国式逸脱点である」(ロビンソン,196)。浄土教の教義は長い年月とともに多くの変更が加えられてきた。真宗はただ浄土教の教義から迷走しただけでなく、人を救う権威を持たない架空の人物を追い求めて現実からも大きく外れてしまった。我々が医者を探す時、良い資格と信頼性を求める。保険会社を探す時も同様に、確実性と信頼性を求めるものだ。
救い主を求めるとき、我々はそれ以下を期待すべきではない。むしろ、それ以上のものを期待すべきだ。「ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない」『イザヤ書 43 章 11 節』。「地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる 。わたしは神であって、ほかに神はないからだ」『イザヤ書 45 章 22 節』。「きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである」『ルカによる福音書 2 章 11 節』。
全能の神はただお一人である!神は「わたしのほかに救う者はいない」と、語られた。それでもイエスは“救い主”と呼ばれている。これは、イエスが全能の神そのものだからである。
イエスの救いは広範囲にまで及ぶものだ。イエスと共に十字架に磔(はりつけ)となり、その時に信仰を持った盗人にまで救いは約束されている。それは空約束ではない。イエスは死から蘇ったとき、その権威を証明した。イエスが死から蘇った復活に関する歴史的な記録には、多くの法律家をイエスへの信仰に導いた力量がある。〖十字架にかけられた犯罪人の片方が、「あなたは救い主キリストではないか。それならば、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言い続けた。もうひとりのほうは、それをたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか?われわれは自分のやった事の報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、この方は悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう 」〗『ルカによる福音書 23 章 39 節~43 節(口語訳)』 イエスはどのような人生を歩んでいる人でも救うことができる。浄土真宗寺の2人の住職、それぞれの曾孫娘 2 人が「どのようにしてクリスチャンになったのか?」第三章をご参照いただきたい。
⒊日蓮: 日蓮宗
2004 年、日蓮宗の各宗派は日本人口の約 13 %を占めている。日蓮(1222~1282)も天台宗を離れ、法華経のみに着目して彼の仏教宗派を形成した。「日蓮は、法華経だけが純粋な真実のダルマ(仏教における法)を含んでいると考えた。他の全ての仏教宗派は間違っている…」(ロビンソン,256)。「日蓮の人生は仏教の指導者というよりも、神道シャーマンの形態に倣っていた。彼はその勇気と…時には霊媒のそれに似ている彼の個性によって信奉者を惹きつけた」(ロビンソン,256)。「…彼が勧めた修業は極めて単純なもの:即ちお題目(マントラ)━《南無妙法蓮華経》を繰り返すことだった…その後、彼は自分の信仰を表現した御本尊と呼ばれる曼荼羅(まんだら:聖画)を創りあげ、それを注視しながら
帰依の意を表明する拝礼の宣言を繰り返した」(ロビンソン,256)。
“日蓮”という名前は彼の本名ではなく、“太陽の蓮”を意味する彼自身の命名である。「…日(にち)は、真の信仰の太陽のみならず、日本そのものを象徴している。蓮 (れん)は、ハスの花を表わす」(ソーンダース,231)。日蓮はまた多くの著作を残している。「…これらの著作は他の宗派、特に阿弥陀仏や禅、そして後には真言宗や律宗の誤りを指摘することに費やされた。実際、これら 4 宗派に対する不利で敵意に満ちた批判が日蓮宗の不可欠な特徴となった」(ソーンダース,233)。「日蓮は普遍的な救済の教義を推進したが、彼の宗派は日本の宗教史上、最も排他的でしばしば過激な集団へとエスカレードしていく」(Michio,273)。日蓮はかつて、「罪のないモンゴル人の首を刎ね、日本の敵である念仏(浄土)、真言、禅、律の僧を無傷のまま残しておくのは誠に遺憾である」と、述べた。
(メーソン&ケイガー,165)。
「日蓮は、法華経の本来の仏性についての複合瞑想…永遠の釈迦牟尼仏陀と経典の真実、そして全ての存在は究極的に一体であるという確信に信仰を定める…として、その教義を示したのである(ロビンソン、256)。この信仰は日本仏教の他の宗派(華厳、天台、真言、禅)と同様に、非常に汎神論的に聞こえる。
例えば天台宗において、「…人間の生命だけでなく、全ての生命は基本的に同じであるという思想、つまり存在の根底にある統一性の思想があった…。…この思想は法華経に基いている…」(メーソン&ケイガー,102)。このような“存在の統一性”、仏陀と“すべての存在”の究極の一体とされるものは、善悪の区別を付けることは出来ない。あらゆる森羅万象は一つであり、それは善も悪も包含することになる、という汎神論的なものである。日蓮が「善」と「悪」を判別しようと試みても、法華経に基づけば、その根拠はない。日蓮は善悪について無関心ではなかったが、自分の体系の中に、この宇宙の悪とは別の権威を備えた基準を持たなかった。全能の神のみがその完璧な基準を提供することができるのである。
観音
京都には 1000 体の観音像を擁するお寺がある。それらの像の周りには、28 体 の
「護り神」が居り、その多くは頭や腕に蛇を巻き付け、悪魔のような形相をしている。これら 28 体の護り神の大部分は、ヒンドゥー教の教えに従ってそのまま日本へ持ち込まれたものだ。このことは、“神”が悪魔のような存在に護られているということは、何か意味があるのではないだろうか?悪魔が真実を宣伝し広めようとしないのは確かである。ダライ・ラマは男性でありながら観音の化身だと言われてお
り、通常、観音は女性の姿で描かれている。「中国では、観音は最終的に女性の外
観として表現された」(ロビンソン,108)。ところで、“Canon”(キャノン:カメラ・プリンター等のメーカー)商標名もまた観音に因んでいる。
(http://www.canon.com/about/history/outline.html)。
観音は法華経では聖観音(ショウかんのん)という名で登場する。法華経には、観音は女性、少年、少女、ガルーダ(鳥)、ナーガ蛇にさえ姿を変えることができる
と記されている(www.bdkamerica.org/digital/dbet_t0262_lotussutra_2007.pdf)。
「観音経が法華経に編入されたのは、遅くとも紀元前3世紀のことである」(ロビンソン,108)。「…弥勒菩薩(ミロクぼさつ)や文殊菩薩(モンジュぼさつ)、それに聖観音(観音)…これらは史実上の存在ではない。そのうちのどれも、人間の英雄の神格化であるという証拠はない…。「紀元前 3 世紀までは天上の菩薩への帰依を説く経典は無かった…」(ロビンソン、105)。
日本にはアメリカの自由の女神像より高い観音像が 10 体、高さ 17~100mの観音像が 32 体 もある。悲しいことに、この伝説的な実在していない偶像に何百万円もの大金が注ぎ込まれ、一方で、本当に我々が称賛し注目すべきお方、すなわち創造主を無視することになっている。神は偶像崇拝ではなく、イエスが教えられたように
“霊と真実(まこと)”をもって礼拝されることを望んでおられる。イエスの存在は、歴史の上で非常に多く確認されている。奇蹟を起こし、完璧な人生を送り、死から蘇り、イエスの生涯は彼が地上に生まれる何百年、何千年も前に、旧約聖書で何百もの詳細な預言が為されていた。イエスは言われた、「…わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」『 ヨハネによる福音書 14 章 6 節(口語訳)』。
足利~江戸時代(西暦 1333 年~1868 年): 停滞
この時代、「曹洞(そうとう)宗と臨済(りんざい)宗(ともに禅宗)以外の全ての仏教宗派は、自分たちの利益を守る為に武装社会を形成したが、数十万単位の夥しい人数が虐殺される顛末となり、国家統一の手段としての仏教の威信が失墜し崩壊した」(ロビンソン,257)。この時、政府の中枢は江戸(現代の東京)に置かれた。鎌倉時代(1185 年)から明治時代(1868 年)初頭まで、日本は概ね将軍(幕府) によって支配されていた。「…長期の平穏無事な体制維持が続き、新しい思想や外国からの挑戦や課題がもたらされなかったことが結局、仏教組織の活力を失わせ、徳川時代の終わり(1868 年)には、その状態はせいぜい“無気力”としか呼びようがなかった」(ソーンダース,247)。「…明治時代の(1868 年)初め、仏教は最も弱体化していた。徳川幕府に統制されてきた空虚の時代、その徹底した長年の支配下での矮小化は、この宗教が幕府の権力と同一視されることで終止符を打った…。
1867 年、幕府は崩壊し、その翌年に仏教は解体され、その大部分が無力化された」
(ソーンダース,255)。
明治時代(1868 年~1912 年): 改革
明治維新は社会の様々な側面に影響を与えたが、しかし当然ながら、「…藤原氏と歴代の征夷大将軍によって簒奪された天皇を正統な地位に戻す」ことから始まった
(メーソン&ケイガー,258)。神道の興隆は天皇の興隆と密接に関連していた。
「1870 年、政府は大教、すなわち“偉大な教義”の名の下に神道を国教とすることを宣言した。強力な布教活動が開始され、伝道神官が全国に派遣され、彼らの任務は儒教と仏教の誤りを正し、神道の思想を擁護することにあった」
(ソーンダース、257)。
大正~令和時代(1912 年~現在): 革新第二次世界大戦後、「…天皇は公的にその自身の神性を否定し…個人は家の宗教に束縛されることがなくなり、農地改革政策が施行された…。国家によるこれらの発令の複合的効果は日本史上初めて、宗教に関係のない政府を樹立し、個人には完全な信教の自由を与えることだった」(ロビンソン,264)。新興宗教が続々と乱立した。その一方で、「世論調査では、日本人の多くが自分を特定の集団に所属しているとは考えていない」(ロビンソン,265)。
⒈ 創価学会創価学会の仏教は、日蓮宗の分派である。1938 年に始まり、日蓮の教えをベースにしている。「この宗派は、日蓮の伝統的な修練である読誦を推奨している…ただし読誦のモチベーションは、現世の目的(ご利益)を達成することである:即ち、職場での昇進、経済的成功、家庭の調和、身体的・精神的不調の緩和などである」
(ロビンソン,265)。「御本の巻物は創価学会信仰の宗教的核心である」(デュムラン,259)。「この宗派の特徴には、池田大作会長の霊性が明確に反映されており、「御本尊様どうか本日これを成し遂げられるよう助けてください」と、毎日熱心にお祈りするよう信徒に説いている」(デュムラン,259)。「日蓮の教えの総体、即ち法華経のビジョンに従った絶対的な現実を象徴的に表現する為に創作した曼荼羅の中で 、━ 日蓮正宗と創価学会が格別に重要視しているのが ━ 《御本尊》である …中国の表意文字が縦に書かれた巻物…」(デュムラン,258~259)。デュムランは総本山の大石寺を訪れて次のように書いている:「…私はそこに居合わせた若者たちの、あらゆる人間的恐怖を排除した強烈な信念に感動しただけでなく、同
時に彼らの気質は紛れもなく御本尊との個人的関係を示していると感じた」
(デュムラン,259)。
デイビッド・ヘッセルグレイブは、創価学会仏教徒と日蓮宗(当時の統括組織)の不和について書いている:「四半世紀前に 1 億ドル(今日の為替レートでは優に 2 倍以上)をかけて建てられた正本堂(日蓮宗寺院の境内にあり総本山の中心建物だが、大部分が創価学会の寄進によって建てられた)は、仏教界で最も印象的な建造物のひとつだった。しかし、著名な建築家、政治家、様々な宗教指導者たちの嘆願や抗議があったにも拘らず、日蓮宗の僧侶が3,500 万ドルもかけてこれを取り壊してしまった!権力闘争と派閥争いは 1991 年、遂にクライマックスに達し、法主・阿部日顕は池田(創価学会会長)と彼の全ての信奉者を破門するという急進的な措置を講じた」
www.emsweb.org/images/stories/docs/bulletins/hesselgrave_nichirenists_2_2000.pdf。日蓮正宗と創価学会の対立は第二次世界大戦後まで遡り、1952 年、当時の創価学会会長の戸田城聖が、日蓮正宗の僧侶の 1 人に、罪状告知書への署名を強要した。
「名指しされたこの僧侶は、戦時中の創価学会への弾圧と、牧口常三郎(創価学会創立者)が指導者として国教である新党との習合と、身延山の他の日蓮宗分派との組織合併を支持したので彼が獄死したことへの責任を追及された」(デュムラン,258)この様な対立はさておき、創価学会の会員は御本尊を重視し、その御本尊とは、
「…日蓮聖人ほど偉大なお方は他に居られません…」と会員が語るのを、デュムランは聴いた(デュムラン,259)。その人格は「時に霊媒に取り憑かれたかの様な」(ロビンソン,256)死者である、日蓮を呼び起こすとされる巻物と関わりを持つことは、言うまでもなく霊的に危険なことである。これについては後ほど“使い魔”について論じる際に詳しく説明したい。
⒉レイキ(靈氣)レイキは、ヒンドゥー教の思想(例えばチャクラ…人間の身体の中枢にある気やエネルギーが集結し出入りする七つの中心点)を、日本流にアレンジしたものである。
1922 年、仏教の修行を積んだ後に臼井甕男(ウスイミカオ)は、レイキに関する天の啓示を受けたという。その方法は“超自然的な影響力”によって治癒をもたらすことを目的としている。「…看護師、カウンセラー、そして特にマッサージ療法士の多くが仕事の補助としてレイキを用いています」(ユンゲン,95)。「レイキは 1970 年代半ばに日本からアメリカにもたらされました。この特殊な療法の実践者が 50 万人に達するまで約 20 年の歳月を要した…。2005 年には、その人数は全米だけで療法実践者 100 万人という驚異的な数字にまで急増しました!!」(ユンゲン,13)。
レイキは世界中に 500 万人のフォロワーがいると言われている。
(http://www.reiki.ne.jp/reiki_japan/en.html)。
「…多くのレイキ実践者は、霊界とのチャネリングによるコミュニケーションを言語化したことを報告しています」(ユンゲン,97)。レイキでは“レイキガイド”と呼ばれる精霊によって導きがなされる。あるレイキマスターは、「彼らは私の背後に立ってプロセス全体を指示し導いてくれ、私が思うに、彼らはまた、全てのレイキマスターに対してこれを行っているのだと思う。アチューンメントを受けると、彼らの存在を強く、常に感じることができる。時には彼らを見ることもできる」と、彼女自身の経験を書き綴っています(ユンゲン,95)。これらは、人々を愛する神から遠ざける“偽りの奇跡”なのだ。
⒊霊友会霊友会は 1925 年に日蓮宗の分派として設立された。1963 年、会員数は日本人口の
3.6 %を占めると発表した。現在、世界中に 500 万人の会員がいる。
(http://reiyukaiglobal.org/introduction.php)。「それは法華経に基いており、親孝行と祖先への敬虔な尊敬と義務を強調している」(ソーンダース,281)。「…祖先への崇拝がその教えと実践の中核をなしている。一般人にも容易に理解しやすく、シャーマニズムの共同創始者が信奉者に媒介した霊と魂の世界にアクセスできる」(デュムラン,241)。
葬儀と精霊
「…伝統的な仏教は、日本文化的な過去の遺物として以外は、その魅力の殆どを失っている。“葬式仏教”とは、多くの人がこの伝統的宗派を指す時に用いる呼び名で、多くの僧侶が儀式的な役割を担うようになったことを考慮している」(ロビンソン,265)。「多くの寺院は葬儀施設と化し、その管理者たちは主に死者の為の高給な儀式に関心を寄せている」(デュムラン,217)。「地方の武士と農民の支持を取り付ける手段として、曹洞宗(禅の一派)はある程度の人気の高い民衆の信仰や儀式を吸収したが、何よりも死者の為の葬儀や供養を考案し、この特徴は、日本全国の殆ど全ての仏教宗派の特徴の 1 つとなった」(Noriyoshi,169)。
「浄土、真言、天台各宗派の間で今も親しまれている写経の由緒ある儀式は、これは死者の霊を鎮め、修行者の功徳を積み、写された経典への信仰を深める為に行われる」(Unno,323)。同じく“死者の魂を鎮める”ことと関連しているのが、お盆の行事である。「…盂蘭盆会(うらぼんえ:日本ではお盆と呼ばれる)は 6 世紀に中国で始まり、まもなく日本に導入された…盂蘭盆会-祭事の起源は、阿鼻地獄(餓鬼道ともいう)に落ちて倒懸(逆さ吊り)で苦しむ母の姿を神通力の幻視を通して悟った目連尊者(モクレンそんじゃ)の伝説に由来する…母を救う為に彼は仏陀の助言に従って、何百人もの僧侶に食事を振る舞った」(Unno,320)。この物語は随分と後になって創作されたもので、何かと多くの伝説を含んでいるパーリ聖典には載っていない。この物語は、「それは中国由来の経典で『盂蘭盆経』と呼ばれている」に由来する(ロビンソン,215)。「…盂蘭盆会の祭事内容の多くは非仏教的なものである」(Unno,320~321)。お盆祭事の主な目的とは「…死者が適切な旅をするのを助け、彼らが悪意を持って生者に危険を及ぼすのを防ぐ」(ロビンソン,215)ことである。
日本の仏教の多くの宗派では、霊との関わりがトレードマークとなっている。神道はアミニズム的な宗教であり、霊を鎮め、加護を求める儀式など…etc.が、執り行われる。聖書では、“身近な霊”とは、実は悪霊のことである。全能の神は、霊を呼び出し崇めたり、交信したりすることを禁じておられる。人が死んだら、この世に浮遊することはない。「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後、さばきを受けることとが、人間に定まっているように…」『 へブル人への手紙 9 章 27 節(口語訳)』とある。既に死んでしまった人の為に、我々が出来ることは何もない。彼ら
が人生で何をしたにせよ、その判断は完全で公正な神によって裁かれるのだ。
この世の霊界にいる霊は故人となった家族メンバーではなく、天使か悪魔のどちらかである。もし我々が神の教えに従わずに、神の家族に迎え入れられたとしたら、慈悲深く力強い存在のふりをした悪魔に欺かれる危険に晒されている。悪魔は人々の注意を神から遠ざけ、霊的に偽り束縛する絆を結ぼうと試みる。神の家族の一員であるクリスチャンでさえも用心するようにと言われている。「愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである」『ヨハネの第一の手紙 4 章 1 節(口語訳)』。「ためす」という言葉は“裁判にかけるように調べる”━ という意味である。我々は彼らのメッセージを聖書の基準と比較することによって、これを行うのである。神は、我々が御言葉以外のところから霊的な指示を求めてはならないことを、聖書の御言葉のなかで非常に明確に示された。「あなたがたのうちに、自分のむすこ、娘を火に焼いてささげる者があってはならない。また占いをする者、卜者、易者、魔法使、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない。主はすべてこれらの事をする者を憎まれるからである。そしてこれらの憎むべき事のゆえにあなたの神、主は彼らをあなたの前
から追い払われるのである。」『 申命記 18 章 10 節~12 節(口語訳)』キリストより約 700 年に生きたイザヤは、全能の神の代わりに死霊を信奉する人々を叱責した。「人々があなたがたにむかって“さえずるように、ささやくように語る巫子および魔術者に求めよ”という時、民は自分たちの神に求むべきではないか?生ける者のために死んだ者に求めるであろうか?ただ教とあかしとに求めよ。まことに彼らはこの言葉によって語るが、そこには夜明けがない 」『イザヤ書 8 章 19 節
~20 節(口語訳)』。神は全ての霊を支配する権威を持っておられるので、我々は劣った霊に悩まされる必要がない。全能の神に身を委ねれば、神が我々の人生を導いてくださる。
全能の神道路にコンピュータのマウスが落ちていたとしたら、それに製造業者があることを誰も疑わない。コンピュータマウスはひとりでに出来上がったのではない。たとえ作り手が見えなくても、コンピュータマウスそのものが生産者の存在を示す証拠になる。コンピュータのマウスを製造する工場はある。けれども、本物のマウスを生み出す工場はない。コンピュータのマウスは、その“尻尾”を使ってコンピュータに情報を伝えることができるのが特徴で、“尻尾”がなく“リモート”で情報を伝えるタイプもある。しかし、本物のマウスには自分の脳があり、その脳から自分の身体に命令を伝達することができる。
コンピュータのマウスは“ハイテク”ですが本物のマウスは作れないので、実のとこころ、コンピュータのマウスは“ローテク”、本物のマウスを“ハイテク”」と呼ぶべきであろう。本物のマウスを創ることが出来るのは神のみである!神の姿は見えないが、マウスの存在そのものが創造主の存在の証拠なのだ。コンピュータのマウスよりも遥かに複雑であるため、偉大なデザイナーが存在しなければ、自分で作ることもランダムで生まれることも出来ない。神はまた人間を創造されたが他の動物とは異なり、神はご自分の似姿に人間を創造された。猿には警察猿も裁判所も刑務所も図書館も哲学猿…etc.などもいない。彼らは本能に従って生きている。人間には善悪を選択する自由がある。人間はいつの日か、自分の人生で何をしたのか、また創
造主である神にどう対応したのか、神から責任を問われることになる。
現在のところ、地球上でもっとも高い偶像は中国にある毘盧遮那仏(密教における大日如来)で、その高さは 128 mある。全能の神と比較すれば、その像は塵芥のようなものだ。万物を創造された全能の神を人の手で造った偶像に納めることが出来るだろうか?たとえ、高さ 8000mの頭が雲の中に隠れる偶像や、高さ 12000mの頭が雲の上に突き出す偶像を造れたとしても、それは全能の神に比べれば、まだまだチッポケなものだ。「主はこう言われる、天はわが王座、地はわが足台である。あなたがたはわたしのためにどんな家を建てようとするのか?またどんな所がわが休み所となるのか ?」『イザヤ書 66 章 1 節(口語訳)』
日本仏教においては大日如来が太陽神として崇められ、神道においては天照大御神が太陽の女神として崇められている。太陽は我々の崇拝の対象として相応しいものだろうか?また、宇宙はそれ自体、大日如来の顕現だと言われている。宇宙は我々の崇拝の対象として相応しいだろうか?太陽は確かに質量ともに巨大で驚嘆すべきものである。しかし、宇宙の他の部分と比較すると、それは同様に小さなものだ。太陽と宇宙は神の驚くべき設計を指し示している。全能の神は被造物から切り離され、それよりも遥かに偉大な存在なのである。また、宇宙はいまだに罪によってもたらされた呪いの下にあり、神の力の不完全な反映に過ぎない。我々は被造物ではなく創造主を崇拝すべきである。
ジェイソン・ライルは、太陽と我々の宇宙についての洞察を深めている。「太陽は月の約400 倍の距離にある。驚くべきことに、それはまた 400 倍も大きい。つまり、月と同じ角度で同じ大きさに見え、空の同じ部分を覆っていることを意味する
(月は日食で太陽を完全に覆い隠す最適なサイズ)…もし太陽が空洞だったら、100 万個以上の地球を収容できる…1000 億個の星を持つ天の川の広大さに思いを馳せた時…創造主の圧倒的な力を見せつけられる。しかも、銀河系は我々のものだけではなく…天の川銀河には、少なくとも星の数(1000 億個)と同数の銀河があると推定
されている」(http://www.answersingenesis.org/articles/tba/splendor-of-creation#fnMark_1_1_1)。
宇宙はとてつもなく広大で(太陽が小さく見えるほど)、全能の神はその創造された宇宙よりも更に偉大である。〖主は言われる、「人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか?」主は言われる、「わたしは天と地とに満ちているではないか?」〗『 エレミア書 23 章 24 節(口語訳)』数値と心日本の国土はカリフォルニアより小さいのに、人口はカリフォルニアの3倍以上ある。アメリカ合衆国の全人口は日本の約 2.5 倍しかない。つまり、アメリカ全土の人口の約半分がカリフォルニア州へ移動して、日本の人口密度とほぼ同じになる。日本は他国と比較してかなり小さな国であるにも拘わらず(けれども大規模で非常に勤勉な労働力を持っている)、立派に経済成長を成し遂げた。「…年間生産量の持続的な増加により、日本は今日、経済大国として米国に次ぐ地位を占めるに至った」(メーソン&カイガー,361,著作権 1997)。最近になって中国が第 2 位に躍り出たが、日本は依然として世界第 3 位である(GDP で測定した場合)。
この様な経済的な強さの中で、日本、中国、アメリカの多くの人々の心は、全能の神ではなく、お金に従うことにしたのである。「どの僕(しもべ)でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。欲の深いパリサイ人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで彼らにむかって言われた、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる」『ルカによる福音書 16 章
13 節~15 節(口語訳)』。
デール・ソーンダースの著書『日本の仏教』では、1960 年と 1963 年に出版された他の 2 冊の本を引用し、日本仏教の各宗派の会員数を示している。1960 年~1965 年の間に、日本の人口は約 9585 万人だった。ソーンダースの本の統計を用いながら、総人口に占める割合で当時、最も人気のあった仏教の 7 つの宗派を紹介する:浄土真宗(真宗ともいう)14.9%、創価学会 10.4%、禅宗 9.6%、浄土宗(浄土真宗の前
身)3.7%、霊友会(日蓮宗の分派)3.6%、真言宗 3.1%、日蓮宗 2.3%である。また、真宗の人気を反映して 1918 年に出版された本(『刑務所の紳士』)には、当時
の刑務所のチャプレンがすべて真宗の僧侶であったと書かれている(石井,49)。
1960 年/1963 年の統計では、日本人口の約 69.6%が仏教徒だった。1995 年の統計では、人口の約 69.6%が仏教徒で、93.1%が神道であることが判明している。キリスト教徒は 1.2%、その他の宗教は 8.1%である(ブリタニカ百科事典)。仏教を信仰する人と神道を信仰する人が重複しているのは明らかである。多くの人が神道と仏教の両方を信仰していると考えている。この 2 つの宗教は、時には強制的に区別さ
れることもあったが、互いにシンクレティズムを持った歴史がある。
2004 年の統計と比較すると、当時の人口 1 億 2760 万人に対し、仏教徒は約 44%であることがわかる。奈良系宗教が 0.56%、禅宗 2.6%、天台宗 2.7%、真言宗 9.9%、日蓮宗 13%、浄土宗 15.3%(オブライアン)と、なっている。ここでは創価学会、霊友会、日蓮が日蓮宗という括りになっているようである。まとめると、やはり浄土宗、真宗、日蓮が法華経を極めた宗派が最も多く、真言宗、天台宗、禅宗の占める割合も大きい。
現在、世界で最も高い像は中国にある毘盧遮那仏で、高さは 128m。日本にはアメリカの自由の女神像(高さ 46m)よりも高い観音像が 10 体ある。日本で最も高い仏像は、110mの阿弥陀如来である。高さ 13m から 110m まである日本の仏像のう
ち、上位 4 種類は次の通り:毘盧遮那仏(3 体)、空海(4 体)阿弥陀如来(4 体)観音(32 体)(http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_statues_by_height)。これらの像に注ぎ込まれる巨額の資金は、人々の心が何処にあるのかを物語っている。「あなたの宝のある所には、心もあるからである」『マタイによる福音書 6 章 21 節』。
様々な仏教の人気は、様々な仏教の宗派の人気と比較して、少し異なるイメージを与える。真宗の人気が高いので、阿弥陀如来像が多くなると思われる。観音像は圧倒的な人気だが、観音像だけを扱う宗派がある訳でもない。しかし、観音は法華経に大きく登場し、創価学会、日蓮、霊友会、天台宗が崇敬している。真宗や浄土宗でも、阿弥陀仏の次に観音が位置付けられる。毘盧遮那仏は真言宗の中心仏であり空海(AD774-835)は真言宗の開祖である。だから、この配分はある意味、理に適っている。
締め括り大乗仏教は日本や中国を中心にその他各地で、様々な形で表現され信仰されている。この大乗仏教の中には、互いに全く正反対な思想の宗派もあるが、“悟りの境地はごく少数の人間が得られる”とする上座部仏教(小乗仏教宗派の中で唯一現存する)に対して、より多くの人を対象としているため、大乗仏教の分派だと見なされている。大乗仏教は歴史的に後発スタートであり、既に欠陥のあるシステム(小乗仏教)に多くの新しい着想を神秘的に付け加えた。この章では日本における大乗仏教の欠陥を幾つか見てきた。
真言宗を始めとする汎神論的な見方を重視する宗派は、もしすべてが含まれるなら(真言はとくにこの点でハッキリしており、他の宗派もそれを示唆している)、悪もまた“仏性”に含まれると考えると、自らを内部崩壊させる。禅は、他者との交避けながら沈黙の説教と“論理を超えた”アプローチに依存し、何かを伝えようとすると自滅する。真宗は自己努力(自力)の虚しさを見抜きながら、限定的で想像上の存在を信じて助けることを提案する。日蓮宗の諸宗派は、法華経にも同様に信憑性の無いものがある。法華経は 200 年頃に編纂されたが(ロビンソン,85)、ゴータマ仏陀の最後の説法であると主張しており、信憑性を高めるには約 600 年遅すぎたことになる。「死者の霊」を呼び出す他の様々な宗派も同様に、それらが実際は欺瞞的な霊を呼び出していることを知らず、限定的で暗中模索の状態である。これに加えて、どんなに劣った霊でも、我々が永遠の救いを見出すのを助けることは出来ない。神は全知全能である。全能であるが故に、神に全幅の信仰を置くことを期待さ
れているのであって、神に 50%、他のものに 50%という訳ではない。
これらの思想のどれかを、我々を救って天国に連れて行ってくれる筈の“乗り物”に喩えるなら、それらはガソリンもタイヤも無い、あるいは想像上のものでしかなく、我々をどこにも連れて行く能力のない乗り物のようなものである。この地上には道路を走る立派な乗り物を製造する工場があるが、我々を天国に連れて行く乗り物を製造する工場はない。全能の神だけが人を天国に連れて行くことが出来る。そしてそれは、イエス・キリストを通して聖書の御言葉で啓示されている神の条件に従わなければならない。
元犯罪者の石井藤吉は、1916 年にクリスチャンになった。彼は次のような言葉を書き残している:〖また、刑務所の教戒師や牧師、そして、人の死に立ち会う者たちは、「人が最後に口にする言葉はその人の魂の奥底から出たものであり、嘘を口にして死ぬことはない」ということで一致する。イエスの最後の言葉は、「父よ、彼らを赦したまえ。彼らは自分たちが何をしているのか分からないのですから」でした。だから、この最後の言葉がイエスの真実の心を明かしたものだと信じるしかありません。この御言葉は私に何を明らかにしたのでしょう?それをキリストの慈愛と呼ぶべきでしょうか?それは彼の憐れみなのでしょうか?何と呼べばいいのか、私には分りません。ただ、言い表せないくらいの感謝の心で、私は信じたのです。この簡潔な文章によって、私はキリスト教の全体像に導かれていったのです」〗
(石井,36)。
キリスト教は単なる思いつきではなく、歴史的、預言的な証拠によって立証されている。これは極めて重要で不可欠なことである。体験や夢、あるいは幻影といったものは、現実の霊的な証拠にはならない。そのような“証拠”は、法廷で忽ち退けられてしまうだろう。キリスト教にあるのは、イエス・キリストとその教えに関した、人生を変える素晴らしい真理だけでなく、法廷で証明できるような証拠でもある。我々の創造主である神は、我々の全ての礼拝と信仰に値する。今日、あなたはイエスの御許に来て、彼を信じるだろうか?「そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」『ヨハネの第一の手紙 5 章 11 節~12 節(口語訳) 』。
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